昭和20(1945)年5月29日未明、米第21爆撃機集団所属のB29編隊517機がマリアナ基地を発進し、午前9時20分ころ横浜上空に達し、10時半ころまで、約1時間で、総数43万8,576個(2,569.6トン)の大量の焼夷弾を投下した。

密集した木造家屋を焼き払うのに適したM69と呼ばれる集束焼夷弾攻撃により、中区・南区・西区・神奈川区を中心に、横浜の市街地は猛火につつまれた。

この大空襲による被害は、直後の公式発表によれば、死者3,650人、重軽傷者10,198人、行方不明309人、罹災者は311,218人とされる。

大正12(1923)年の関東大震災から20年余りが過ぎ、ようやく復興した横浜の街は、再び灰燼に帰したのである。

(横浜市HP)

 

 

東京大空襲

3月10日の下町大空襲は夜間に低高度から1665トンに上る大量の焼夷弾を投下した空襲でした。目標地域に4か所の爆撃照準点を設定し、そこにまず大型の50キロ焼夷弾を投下しました。これにより、大火災を起こし、日本側の消火活動をまひさせ、その後小型の油脂焼夷弾を投下する目印となる照明の役割を果たしました。
 火災は北風や西風の強風もあって、火災は目標地域をこえて、東や南に広がり、本所区、深川区、城東区の全域、浅草区、神田区、日本橋区の大部分、下谷区東部、荒川区南部、向島区南部、江戸川区の荒川放水路より西の部分など、下町の大部分を焼き尽くしました。罹災家屋は約27万戸、罹災者は約100万人でした。
 木造家屋の密集地に大量の焼夷弾が投下され、おりからの強風で、大火災となったこと、国民学校の鉄筋校舎、地下室、公園などの避難所も火災に襲われたこと、川が縦横にあって、安全な避難場所に逃げられなかったこと、空襲警報が遅れ、警報より先に空襲が始まり、奇襲となったこと、踏みとどまって消火しろとの指導が徹底されて、火たたき、バケツリレーのような非科学的な消火手段がとられ、火災を消すことができないで、逃げおくれたことなどの要因が重なり、焼死、窒息死、水死、凍死など、9万5000人を超える方が亡くなりました。

 

 

 

 

 

 

 

 

米国による無慈悲な戦法は日本に対してではなく、その後も続けられました。

そして多くの人命を奪いながら自国の犯した犯罪を世界中のメデイアを懐柔し正当化する米国。

彼らは世界の警察でも何でもありません。

武器を売る為に争いを熾すのです。

日本人はわが国に米国が行った戦法を連想しますが、ロシアはウクライナ首都などには米国が行った戦法を用いておらず、キーウの人々は平常に暮らしています。

大空襲とは表現されていても、結果的に行われたのは"大焼殺"であり、"大爆殺"であったのだと認識しなければなりません。 

 

『武器が売れないのなら、戦争を起こせば良い』という流れの中で行われた、一方的な虐殺行為でしかない。

これからも産軍複合国家「米国」はこれらを続けていくのでしょうね。

真実をねじ曲げながら。