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天皇彌榮(すめらぎいやさか)
 
  1. 甍(いらか)の波と雲の波、
    重なる波の中空(なかぞら)を、
    橘(たちばな)かおる朝風に、
    高く泳ぐや、鯉のぼり。
  2. 開ける広き其の口に、
    舟をも呑(の)まん様見えて、
    ゆたかに振(ふる)う尾鰭(おひれ)には、
    物に動ぜぬ姿あり。
  3. 百瀬(ももせ)の滝を登りなば、
    忽(たちま)ち竜になりぬべき、
    わが身に似よや男子(おのこご)と、
    空に躍るや鯉のぼり。
 
今日5月5日は端午の節句、日本では今日は子供の日です。
昨今は、大型連休に組込まれ、本来の端午の節句の意味もあまり意識しなくなったのではないのでしょうか?
最近では余り歌われなくなりました「鯉のぼり」ですが、この歌は、鯉のぼりの雄大さをたたえ、男児がこいのぼりのように雄大に成長するようにという願望を歌っています。
最近は、戦後教育の堕落から、戦前の文部省唱歌が殆ど、歌われなくなりましたが、よき日本人となって欲しいという、国の思い、親の思い、国を思う国民の思いを歌った唱歌の復活を願うばかりです。
少子化の影響もあるでしょうが、筆者が子供の頃は「鯉のぼり」があちらこちらの家庭で、大空高く泳いでいたように記憶しています。
そして、端午の節句の由来、意義も薄れ、大人が遊ぶ為の単なる休みとなってしまっているのが実情ではないでしょうか?

 
端午の節句の由来は中国の楚の国の愛国の士屈原(くつげん)(前340頃~前278頃)に由来します。
詩人でもあった彼はその正義感と国を思う情は強く、人々の信望を集めていました。
しかし、屈原は陰謀によって失脚し、国を追われてしまいます。
その時の想いを歌った長編叙事詩「離騒(りそう)」は中国文学史上、不朽の名作と言われています。
故国の行く末に失望した屈原は、汨羅(べきら)という川に身を投げてしまいました。5月5日がその命日にあたります。
屈原を慕う楚 の国民達は、小舟で川に行き,太鼓を打ってその音で魚をおどし,さらにちまきを投げて,「屈原」の死体を魚が食べないようにしました。
その日が中国の年中行事になり,へさきに竜の首飾りをつけた竜船が競争する行事が生まれたそうです。
これは今日のドラゴンレース(龍舟比賽)の始 まりとも言われています。
これがちまき(肉粽=ローツ ォン)の起源です。このようなエピソードから、毎年命日の5月5日の屈原の供養のために祭が行なわれるようになり、やがて中国全体に広がっていったのです。
 国と人民に尽くした屈原の政策は、死んだ後もいっそう人々に惜しまれ、多くの粽(ちまき)を川に投げ入れて国の安泰を祈願する風習に変わって行きます。
急に暑くなるこの時期は、昔から病気にかかりやすく、亡くなる人が多く、5月を『毒月』と呼び、厄除け・毒除けをする意味で菖蒲やヨモギ・ガジュマロの葉を門に刺し、 薬用酒や肉粽を飲食して無病息災を祈りました。
その風習は、病気や災厄(さいやく)を除ける大切な宮中行事、端午の節句となったと言われています。三国志の時代に端午の節句は、魏(ぎ)の国により旧暦五月五日に定められ、やがて日本にも伝わって行きました
日本の端午(たんご)の節句は、奈良時代から続く古い行事です。
端午というのは、もとは月の端(はじめ)の午(うま)の日という意味で、5月に限ったものではありませんでした。しかし、午(ご)と五(ご)の音が同じなので、毎月5日を指すようになり、やがて5月5日のことになったとも伝えられます。
日本でも、季節の変わり目である端午の日に、病気や災厄をさけるための行事がおこなわれていました。この日に薬草摘みをしたり、蘭を入れた湯を浴びたり、菖蒲を浸した酒を飲んだりという風習がありました。厄よけの菖蒲をかざり、皇族や臣下の人たちには蓬(よもぎ)などの薬草を配り、また病気や災いをもたらすとされる悪鬼を退治する意味で、馬から弓を射る儀式も行われるようになりました。
菖蒲は薬草で、邪 気を避け、悪魔を払うという昔からの信仰があり、節句 にはヨモギとともに軒にさし、あるいは湯に入れて「菖蒲湯」として浴しました。
古来おこなわれていた宮廷での端午の行事も、時が鎌倉時代の武家政治ヘと移り変わってゆくにつれ、だんだんと廃れてきました。しかし、武士のあいだでは尚武(武をたっとぶ)の気風が強く、「菖蒲」と「尚武」をかけて、端午の節句を尚武の節日として盛んに祝うようになったのです。
こいのぼり(鯉のぼり)の由来は、鯉が「龍門」という急流の川をのぼると龍になって天へ登るという中国の古事からきています。
我子も健康に育ち、将来は大きく出世して欲しいとの気持を込めたものです。また、「わが家に男の子が生まれました。どうぞお守りください。」と天の神様に伝え、守っていただく意味があるとも伝えられています。 

愛国の士屈原の慰霊に始まり、時代の変遷のなかで、薬草を摘んで邪気をはらうという端午の行事が、男の子の誕生の祝いへと結びついていったと考えられます。
 
「子供は国の宝」といいます。
何故なら子供が育たないことには、国家、家、文化の伝統の継承がありえないからです。
江戸、明治の時代に日本を訪れた外国人は、世界中で一番子供を大切にする民族であり、子供たちは世界中で一番礼儀正しく、輝いていると幾多の書物でも紹介されています。
端午の節句は、国思う愛国の士に由来し、災難を避ける風習の日であり、子供の成長を願う日でもある。
これは、先人が連綿と国家の連続を願ったものであり、また現世に生きる我々も、連綿と続く子孫とを繋ぐ一人として、子孫の繁栄を祈ったものです。現世に生きる我々はそれを継承し、次の世代に伝える「祈りの日」でもあることを忘れてはならないでしょう。
 
天皇彌榮(すめらぎいやさか)