塩谷トンネル

 

 

過疎地にインフラを整備しても、これからの日本ではもう維持できないのではないか……。元旦に襲った能登半島地震のあと、このような議論がネット上では巻き起こり、大きな論争となっている。

多くの国民は現在の永田町、霞ヶ関の冷たさを感じたことでしょう。

以下にかってわが国にあって日本を指導した田中角栄元首相の政治の原点を表した評論があるので転載しました。

今の時代に適さないという方もいるでしょうが、いったい政治の原点とは何だろうと一考させられます。

 

 

現在ではあまり記憶されていないが、かつて「日本列島改造論」をぶちあげた田中角栄は、郷里・新潟の過疎の村に12億円の費用をかけてトンネルを作り、猛烈な批判を浴びた。そのとき、角栄はこう語ったという。  「このトンネルについて、60戸の集落に12億円かけるのはおかしいとの批判があるが、そんなことはないっ。親、子、孫が故郷を捨てず、住むことができるようにするのが政治の基本なんだ。だから私はこのトンネルを造ったんだ。  トンネルがなかったら、子供が病気になっても満足に病院にかかれない。冬場に病人が出たら、戸板一枚で雪道を運んで行かなきゃならん。同じ日本人で、同じ保険料を払っているのに、こんな不平等があるかっ」  当時の角栄は何を想っていたのか。「週刊現代」2016年10月29日号に掲載された、ジャーナリスト・松田賢弥氏(故人)の取材・執筆による、知られざる「角さんの素顔」を、この機にお伝えしたい。なお、人物の年齢や肩書は2016年当時のものとする。 

 

「必ずまた来る」

 

 暑い日だった。車から降りた田中角栄元首相は背広も脱がず、差し出された冷えたキュウリに味噌をつけて頬張ると、急ごしらえの演台に乗りマイクを握った。  「トンネルが完成したら必ずまた来ると約束した。それが果たせてうれしいっ」  1983年7月27日、角栄は新潟県小千谷市塩谷に作られたばかりの「塩谷トンネル」の坑口に立っていた。そこは、後に2004年の中越地震で大きな被害を受ける山古志村から、険しい山道をくねくねと登った山中である。  この日、自身が逮捕されたロッキード事件の一審判決が3ヵ月後に控えていたこともあって、トンネルの落成式に臨む角栄を追ったマスコミの車が、山道に1kmも数珠つなぎで続いた。

 

 

 

塩谷トンネル

 

 

「自分の家が一番いい」

 

 塩谷は過疎の集落だ。冬には積雪3~5mもの豪雪に見舞われる。唯一の産業である錦鯉の養殖池に囲まれ、約60戸の家々が斜面にへばりつくように建っていた。村と小千谷の町との間には、険しい雨乞山が立ちはだかる。暮らしてゆくために、男たちは出稼ぎに出るしかなかった。トンネルは生活のための悲願だった。

完成したトンネルは全長513m、幅員7m、総事業費は12億円。ロッキード事件の翌年の1977年に起工したこともあって、「たった60戸に12億円の投資か」、「カネを各戸に2000万円ずつ分けて引っ越してもらったほうがいいのではないか」という批判が噴出した。しかし、角栄は持ち前の剛腕でトンネルの建設を主導した。  実は、角栄は逮捕直後の総選挙、いわゆる「ロッキード選挙」のとき、この塩谷を訪れていた。  「もう少しだ。トンネルができて無雪道路になれば、自分の家が一番いい。村に工場を作って、そこでみんな働けるんだ」  もう少しだ――。  トンネルから50mほど離れた山腹に、小さな隧道(ずいどう)が穿たれている。その入り口に角栄はたたずみ、奥の暗闇を一人じっと睨んでいたという。

 

遺族の手をしかと握って

 

 塩谷の人々は、それまでこの自力で掘りぬいた手掘り隧道を頼りに暮らしていた。犠牲者も出るほどの難事業だったことを角栄は知っていた。  1938年から、塩谷の集落の男たちはツルハシで雨乞山の岩を砕き始めた。人の手で掘り進められるのは1日にせいぜい50cm。5年かけ、長さ500m、幅わずか1.5mの隧道が貫通したのは終戦を前にした1943年のことだった。  1942年冬に落盤事故があった。大雪のさなか、ツルハシをふるっていた友野源次郎の頭上に岩が落ち、首の骨を砕いた。享年38。源次郎の墓碑は今も塩谷トンネルの坑口にあり、その隣には「明窓之碑 越山田中角栄書」と刻まれた石碑が並んでいる。  「おおい、友野の倅(せがれ)はいるか」  角栄は、手掘り隧道の犠牲になった源次郎の息子・広徳(現在83歳)のことをいつも気にかけていた。落成式の挨拶の最中、演台の上からこう叫んだ角栄は、進み出た広徳の手をしかと握りしめた。  広徳は40歳ごろから塩谷越山会の幹事長を任されていた。夜汽車に揺られて何度も上京し、目白の田中邸を詣で、トンネルの実現を角栄に陳情していた。

 

どんな田舎も全部歩いた

 

 角栄と塩谷の縁は、角栄が初めて総選挙に出馬した1946年3月にさかのぼる。  雪の中、塩谷集落の隣、東山地区にある南荷頃小学校で27歳の角栄は演説会を開いたのだ。多くの住民が、雪道を歩いてこれを聴きに行った。無名の角栄は、この頃すでにあの有名な言葉をまくしたてていたという。  「谷川岳を切り崩すっ。そうすれば新潟に雪は降らなくなる。崩した土で佐渡海峡を埋めるんだ。雪は関東にも平等に降るようになる」  気宇壮大な演説は聴衆に強い印象を残したものの、支持の輪は広がらず、角栄は落選する。しかしこの時の敗北が、のちの角栄を作った。  元新潟県議で、小千谷市に住む広井忠男はこう言う。  「田中さんはまだ村長も町内会長も案内してくれない無名のときに、地下足袋にゲートル巻きで(地元の田舎を)全部歩いている。だから、後で塩谷の人が陳情に行くと『おお、小千谷の塩谷か。あの道路が大きく曲がっていて、杉が3本生えている、あの先だな』と覚えているんです」  狭く暗い隧道に日々の生活を頼っていた塩谷の住民たちは、トンネルを整備してほしいと、あの「目白御殿」を陳情に訪れる。そこで角栄は何を語ったのか。そしてロッキード事件の渦中、なぜ角栄は「票にならない」はずの塩谷に足を運んだのか……。

 

「おばあちゃん、ありがとなっ」田中角栄が「北陸の過疎の村」に「12億円のトンネル」を作った日、村人に語った「政治のほんとうの役割」 

 

松田 賢弥

 

ベルを鳴らし、指示を出した 1954年、塩谷は小千谷市と合併し、隧道も県道に格上げされた。だが県道とは名ばかりで、裸電球のぶら下がる隧道には地下水が音を立てて漏れ出し、落盤で通行止めになることも頻繁だった。 

 

一方、この頃から角栄は破竹の出世を遂げる。郵政大臣(1957年)、大蔵大臣(1962年)、自民党幹事長(1965年)、そして1972年には自民党総裁に選ばれ、総理大臣となった。

 

 目白の角栄宅に塩谷の住民が陳情に行く際には、小千谷駅から夜行列車に乗り、上野駅に着くのが午前4時ごろだ。

 

「深夜営業の喫茶店に入る金ももったいないから、山手線に何周も乗って時間を潰し、朝7時半に目白で降りるんです。手土産といっても、餅や鯉を提げていくくらいでした。

 

 当時、マスコミには『田中邸の庭の池の鯉は1匹数百万円』なんて書かれていましたが、デタラメですよ。小千谷や山古志の人が持って行った安い鯉が多かったんです」(前出・広井氏) 

 

何度も目白を訪れる塩谷の人々を、そのたびに「おう、おう」と言って出迎えた角栄は、こう訝しむこともあったという。 「隧道を改良してほしい? とっくに終わったもんだと思っていたよ。まだそんなこと言っているのか」 角栄は机上のベルを鳴らし、政務担当秘書の山田泰司を呼んですぐに指示を出した。

 

「おばあちゃん、ありがとなっ」

 直後、角栄はわずか2年で総理を辞し、1976年にロッキード事件で逮捕される。「金権政治家」という謗(そし)りを一身に受けたその時に、角栄は塩谷トンネルの完成にこだわるようになったのである。

 

 同年のロッキード選挙。当時、角栄の番記者を務めていた現・新潟日報社長の小田敏三は、長岡市内の旅館で目にした角栄のようすに驚いたという。

 

 「角さんは必死だった。毎日夕方に宿に戻ると、黄ばんだわら半紙に、辻説法をした場所、人数、どんなヤジが飛んだかまで書き出すんです。『ロッキードはどうした!』と言われた、とかね。 

 

その時、見ると角さんの手が傷だらけで、血が出ているんですよ。握手のとき、ご婦人方の指輪が引っかかるんですね。それほど政治家になって最大の窮地、議員バッジを失うかどうかという瀬戸際だった」 

 

小千谷の村々をまわっているときには、昼食をとった直後でも、地元のお年寄りが差し入れを持って来ると、すぐさま平らげてこう言った。

 

 「おっ、(郷土料理の)鮭の頭と大根の煮物か。うん、うまいなっ。うちの女房は東京モンだから、何回言ってもこの味が出ないんだ。おばあちゃん、ありがとなっ」

 

天才的な選挙のセンスを誇った角栄だが、この時ばかりは落選の危機を相当に意識していた。しかし前述したように、そんな非常時に角栄は、塩谷の小さな隧道まで足を伸ばして「もう少しだ」と住民に語ったのである。

「普通なら、あんな小さな集落に行っている場合じゃないんですよ。でも、誰かが案内したわけでもないのに、角さんは一人でスッと隧道の入り口に行って、奥をジーッと見ていた」(前出・小田氏)

角栄は、隧道の暗闇に何を見ていたのだろうか。

「同じ日本人で、こんな不平等があるかっ」
角栄が塩谷トンネルの落成式に設定した1983年7月27日は、ロッキード事件で自身が逮捕されてからちょうど7年目にあたる日だった。

その日、角栄が語った言葉を、今も塩谷の人々は忘れられないという。

「このトンネルについて、60戸の集落に12億円かけるのはおかしいとの批判があるが、そんなことはないっ。親、子、孫が故郷を捨てず、住むことができるようにするのが政治の基本なんだ。だから私はこのトンネルを造ったんだ。

トンネルがなかったら、子供が病気になっても満足に病院にかかれない。冬場に病人が出たら、戸板一枚で雪道を運んで行かなきゃならん。同じ日本人で、同じ保険料を払っているのに、こんな不平等があるかっ」

この演説には、角栄政治の原点があらわれているようにも思える。

よく知られた角栄の言葉に「政治は生活だ」というものがある。角栄は塩谷という辺地で、「誰のために政治家はいるのか」ということを問い直そうとしたのではないか。だからこそ、塩谷トンネルにこだわり、その落成式を、自身の逮捕と同じ日に行ったのだろう。

「塩谷は60戸しかなかったから、1戸4票としても240票にしかならない。見附市や三条市のような町場にドーンと投資したほうが、よっぽど票になるわけですよ。

それ一つ考えてみても、当時のマスコミが書いた『角栄は自分の選挙のために12億円の公共事業をやった』という批判はおかしいんだ」(前出・広井氏)


塩谷の昔からの住人はこう言う。
「トンネルがなかったら、私らは生きていかれんかった。あの時は『田んぼの畔(あぜ)まで舗装するつもりか』と笑われたよ。でもみんな必死だったんだ。角さんは貧乏人に優しい政治をしてくれた」

中越地震の後、小千谷市街の復興住宅に移った塩谷の主婦も語った。

「トンネルができる前は、子供が病気になったら熊の胆を飲ませるか、大人が総出で、雪の中を小千谷の病院まで運ばんくてはならんかった。ようやく病院に着いたと思ったら、事切れているのが普通さ。ひどいもんだった。角さんがそれを変えてくれたんだ」

「理屈じゃない。暮らしだ」
角栄を「金権政治家」と切り捨てることはたやすい。しかし、地元新潟の人々は口を揃えて、それだけで角栄を語り尽くすことはできない、と言う。

「角さんにとって、『金権政治家』のレッテルは屈辱だった。『金権政治家だったら、こんな田舎に来るか』というのが、あの日の角さんの正直な気持ちだったでしょう。

批判に対して、こうも言っていた。『大事なのは理屈じゃない。生まれ育ったところに帰って来られる。そこで暮らしていける。何が悪い。そうするのが政治家の役割だ』と」(前出・小田氏)

前出の友野広徳に、角栄は「トンネルで便利になっても、塩谷を出て行かんでくれ」と訴えていたという。「ふるさとは家族と一緒で、どんなにカネを積まれても離れられるもんじゃないよ」と言う友野は、その後も長年塩谷に暮らし続けた。

塩谷トンネルの落成から3ヵ月がたった1983年10月12日、角栄は東京地裁から懲役4年の一審判決を宣告される。落日を迎えた角栄にとって、まさに塩谷トンネルは「最後の大仕事」となった。

郷里新潟の貧しい人々に自分は何ができるのか。角栄は政治家人生の最後に、自らの原点に返ろうとしたのかもしれない。

それから約20年後の2004年10月23日に起きた中越地震で、塩谷では小学生3人が建物の下敷きになって亡くなった。トンネルが完成した後も減ることのなかった約60戸の小さな集落は、この地震を境に一気に縮小を始め、今は19戸を残すだけとなった。

「あと少しだ」と自分に言い聞かせるように語ったあの日の角栄が見たら、何を思うだろうか。(文中一部敬称略)

「週刊現代」2016年10月29日号より

まつだ・けんや/1954年岩手県生まれ。雑誌を中心に活動するジャーナリスト。2012年、「週刊文春」で小沢一郎氏の妻の「離縁状」をスクープ。著書に『影の権力者 内閣官房長官菅義偉』『小沢一郎 淋しき家族の肖像』など。2021年10月に死去。