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すめらぎいやさか。

 
 
戦前から昭和天皇を撮影していた、写真家の山端祥玉(やまはた しょうぎょく)山端氏は昭和天皇の写真を撮る前に、御文庫(当時の昭和天皇の住居)に下見に行った際、あまりに質素な事に感激された。
特に「両陛下のおスリッパを見て感泣してゐた」と伝わります。
(昭和天皇の侍従長・入江相政日記より)。
 

4年前に亡くなった皇室記者ひとすじ56年・松崎敏弥さんが生前、次のような記事を遺しておられます。

 

足掛け8年半で3万3000キロ 2万人に声をかけられた焼け跡の中の全国巡幸

 当時の天皇と国民との関係については、私にも印象的な思い出がある。小学生のとき、学校の夏期合宿からの帰り、軽井沢の手前の横川駅で昭和天皇のお召列車とすれ違ったときのことだ。引率していた女性教師が、汽車の窓を開けてはいけないと注意した後に、「私は天皇陛下万歳とはいいません。そういう人間ではありません」といった。ところが、いざお召列車が目の前を通り、天皇陛下がこちらに手を振っておられた時、その女性教師は他の乗客たちと一緒になって「天皇陛下万歳」と叫びながら、号泣していたのである。
後に、先生が婚約者を戦争で亡くしていたと聞いた。複雑な感情を持ちながら、それでも目の前を通るお召列車に向かって泣きながら「天皇陛下万歳」といわずにはいられなかった姿を、皇室記者になってからも、たびたび思い出した。

 

昭和天皇は酒を嗜まれず、美食を好まれなかった。衣類についても飾ろうとされることがなかった。側近にすすめられて、公務の場で着られる洋服を新着されても、新調した服が傷まないように、奥に入られると几帳面にすぐに古い背広に着替えられた。昭和天皇・香淳皇后は、戦時中の昭和19年の暮れから、防空施設として作られた御文庫に、居住されておられました。

そこは、元侍従長の入江相政氏によると、屋根には砂が盛られ、湿っぽく、居住性の極めて悪い施設だったそうです。しかし、昭和天皇は戦後もそこに住み続けられました。何回か新しい御所を作ることを進言申し上げたのですが、昭和天皇は、「国民はまだ住居がゆきわたっていないようだ」といって、断り続けられました。そして、国民の生活水準が戦前をはるかに上回り、神武景気も過ぎた昭和36年の11月、昭和天皇はようやく現在の吹上御所に移られました。

新宮殿が創建されたのは、それよりさらに遅れて昭和43年のことでした。

そして先帝陛下は、以下のように仰せられた。

「こんないい家に住めるようになったのもみんな国民のおかげだ。」

 

 
肇国以来、「常に汝臣民と共にあり」を継承されてこられた畏くも昭和天皇、今上陛下。筆者は陛下の叡慮に幾度か涙しました。昭和天皇、香淳皇后は、大豆の粉やフスマ入りのパン、素うどんなどを召し上がられました。
膝の擦り切れたズボンも取り換えず、空襲で焼けた宮殿を新設することもお許しになられませんでした。
「国民はバラックに住んでいるから自分たちだけ贅沢することはできない」との由。昭和34年、日本国民は皇太子殿下、美智子妃殿下の御成婚を華やかに祝いました。しかし、
その時ですら、昭和天皇、香淳皇后は御文庫(防空壕)で暮らしておられた。
昭和という時代は戦争という一時期を除き、昭和天皇の御稜威により幸せな時代でした。

武漢ウイルスの感染拡大に伴い行動の自粛を余儀なくされている日本国民。

著名人や身内の方を亡くされたご遺族を思うと胸痛むものがあります。

最近昭和を彩った著名人の辞世が頻繁に聞かれ寂しく思います。