死に方 | むーのブログ

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 春分の日、父の墓参りに行ってきた。亡くなってから一年が経とうとしている。その父の臨終の場は、あるショートステイの施設だった。

 

 晩年の父は年を追うごとに足腰の衰えが目立ってきて、家で介護するには厳しい状況となっていた。自分で何とか歩こうとするのだが、如何せん体が言うことをきかなくなっていた。家の中でも立ち上がって歩きだした途端、すぐに座り込んでしまうということもたびたびあって、そのたびに立ち上がらせるのにずいぶん苦労した。特に入浴を介助するときは転倒しないかとひやひやものだった。

 

 当初は特別養護老人ホームに入所させたかったのだが、50人待ちくらいだったか、とにかくいつ空くのか、先がなかなか見えなかった。それでも家で看るには限界が来ていた。預かっていただければありがたいことだったので、とりあえずはショートステイでお世話になった。

 

 入所から3ヶ月経ったある日、父の具合が悪くなったという施設からの知らせを受けてすぐに駆けつけた。ベッドで横になっている父は入所時に比べてずいぶんとやつれていた。それはまるで死が近づいていることを十分予感させるものだった。もう家族の皆がその様子を見て覚悟していた。それから10日ほど経って父は永眠した。

 

 この施設では看取りをしてくれていたので、それはずいぶんと救われることだった。ちなみに父の兄である伯父さんはずいぶんと長生きされ、元気な方だったので、死ぬまで一人暮らしだった。それ故に最期は孤独死という亡くなり方だった。

 

 誰にも看取られずに自分の家で亡くなるのと、施設で看取られながら亡くなるという兄弟で対照的な死に方だったが、さて当人たちはどんな心持ちだっただろう。

 

 孤独死といってもその名に反して案外、いい人生だったと思って逝ったかもしれない。看取ってくれて救われたと上で述べたが、もし家に帰りたいと思いながら逝ったとすれば、果たしてそれは幸せな死に方だったのか。

 

 もし死に方を選べるのならば、私は自室でひっそりと亡くなりたい。たとえ死後、誰にも看取られずに亡くなって可哀そうと思われようと。だってそういう死に方を本人はしたかったのだから。死ぬとき「楽しい人生だった」と振り返るために私は「今」を生きている。