思いやり | むーのブログ

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「思いやり」とは一体何だろうか?「その人の身になって考えること」だろうか。これがなかなか一筋縄ではいかない。

今はもう亡くなられたが、大変親しくしてもらった友人がいる。その人は第4ステージの癌に罹っていて、時々痛みに悩まされたとはいえ、生前まで末期だったとは思えないほど元気な人だった。なので自分が可哀そうと思われることをとても嫌っていたようだ。特に言葉遣いにはとても敏感な人だった。

日頃から余命幾ばくもないと公言しておられたので、命の危機を乗り越えるたびに、自分で「シヌシヌ詐欺」と公言してはばからなかった。そんなこともあり、ある日その人がSNSで投稿した、その人自身を写した写真に関して私は、親しい間柄ということもあり、調子に乗って「これは遺影にいいのでは」とコメントしてしまった。今思うと、親しい仲にも礼儀を欠いた、大変恥ずかしく、失礼な話だ。その友人にはあとでメールで大変怒られてしまった。ただ、それは遺影という縁起でもない言葉を使ったからではなく、死ぬかもしれないという切迫した体験のない私がコメントをするには軽々しく、無神経な言葉だったからだ。自分では自覚していなかったが、ひょっとしたら可哀そうという気持ちもでてしまっていたのかもしれない。そして癌になったことがない人間が「癌になった人の身になって考えること」はやはり簡単ではないこともその時、身をもって感じた。

けれどもその後、雨が降って地を固めていくように、より親しい間柄を築けていったように思う。その友人は自分とは正反対で竹を割ったような性格であり、忌憚のない意見を遠慮なく、はっきり言ってくれる人だった。その後も私が無神経な行動をするたびに叱責されたが、それは自分では気づけないことだったので大変有り難いことだった。一見、耳に痛い、厳しい意見に聞こえるけれども、他人の立場を思いやって、考えてくれた人だった。

お互いの違いを認め合っていたからこそ、その後も友人関係を続けられたのではないかと思う。今はそれがなくなり、とても寂しく思う。自分とは違うからといって排除するのではなく、違いを認めることこそが「思いやり」なのではないかと思う。