絵の価値観 | むーのブログ

むーのブログ

ブログの説明を入力します。

 2019年1月、東京の日の出駅付近の防潮扉に書かれていた“落書き”がどうやらバンクシーの作品らしいと当時話題になった。その絵は小池知事のツィッターの投稿で一躍その存在が知られるようになった。果たしてその作品は本物なのか?当のバンクシー本人は今も沈黙を守っている。何故なら仮に認めたとしたら、それは公共物への落書きという犯罪を認めることになるから。

 以前私は、洞窟の中で二万年ほど前にクロマニョン人が描いたという壁画を美術館まで観に行ったことがある。それは実物大で再現されたレプリカではあったが、その時代の動物たちが、今にも動き出しそうなほどとても生き生きと描かれていた。それはバンクシーの絵にも通じるものがある。落書きの元祖とも言えるだろう。

 美術作品は、誰が描いて、いかに多くの人々に親しまれてきたかでその価値が決まってくる。私はゴッホの絵がとても好きで、展示が行われるたびに美術館へ観に行く。けれども仮にゴッホがまだ誰にも知られていない無名の画家だったとして、突然その絵を目の前に差し出されたら、果たしてその絵に心を動かされるかどうかは自信がない。正直、誰かのお墨付きがあってこその美術鑑賞なのである。

 美術作品の価値がいとも簡単に変わることを端的に表わす、バンクシーにまつわるエピソードがある。ある日、バンクシーはニューヨークのセントラルパークに自分の本物の作品を露店で販売する。販売していたのはやる気のなさそうな、初老の男。露店だからいかにも怪しげで、乱雑に並べられた作品はネットで拾ってきた画像をプリントしただけのように見える。売り上げも本物の作品を売ったにしては残念な結果に終わっている。ことほどさように、美術品の価値は状況によってガラッと変わってしまう。

 結局は、他人の物差しなど当てにせず、自分の目で判断し、良い絵だと感動すれば、それが自分にとって名画といえるのではないだろうか。たとえ、それが偽物の絵であったとしても、見て感動した気持ちには嘘偽りはない。もっと自分が感じた気持ちを信じてあげてもいいのでは、と自戒を込めて思う。