1987年(昭和62年)4月21日(火) ハバロフスク→ナホトカ

 

 ここイルクーツクからハバロフスクまで飛行機で飛ぶ。出発が朝の6時50分だから、ホテルを5時半には出なければならない。昨夜は夫が起きれないかもしれないというので、気になってしばらく眠れなかった。

 11時には横になったのに、日本が近くなって、帰った時のことを考えると興奮して眠れない。1時過ぎまで起きていてうとうとしたと思うと、もう起きなければと思って時計を見るとまだ3時。寝坊しやしないかと何度も目が覚めた。
 

 これからまた移動続き。ちょっときついなぁ。ロビーに降りていくと、立派な格好をしたソビエト人が日本語で話しかけてきた。ウラジオストックのインツーリスト支部長さんらしい。彼と3人で空港へ向かう。

 空港では私たち3人が先にチェックインを済ませて飛行機に乗る。乗客は他にもたくさんいたが、私たちを優先してくれたのだ。私たちが外国人だからか、支部長さんがえらいからか、機内でも特別扱いだった。

 到着して真っ先に降り、ロビーまでのバスも3人だけの貸し切りだった。こんな特別扱いは初めてだし、明らかに隔離している。
 それにしても機内食のまずかったこと!モスクワまでの国際便と比べ、格段に劣る。ビニール袋に固い黒パンと丸パン、チーズ、紅茶と砂糖がごろりと入っていて、冷たいチキンも味がしない。もっとも何も食べてきていないから、食べたが。

 7時には夜が明け、ご来光を前に凍ったバイカル湖を下に見渡せた。ハバロフスクまで2時間の時差があり、到着したのが12時ごろだった。


 それでもナホトカ行きの列車まで5時間以上ある。どう時間をつぶそうかと考えていたら、インツーリストがしっかりバスに乗せホテルに連れて行ってくれた。きっと、ばらばらで街中をウロウロして欲しくない理由があるのだろう。

 私はまた一人で博物館に入り、女の人と住所を教え合った。外国人とコンタクトを取りたいのはどうしてか。やはり共産国ならでは、自由がなく困っているのだろうか。

 今度はアムール川の見下ろせるカフェでアイスクリームを食べた。相席した女の子二人は美人で、なかなかあか抜けた格好をしていた。そこが中国と違う。
 

 3時にはホテルに戻り、またバスで駅に連れていかれた。駅でも外国人などインツーリストを利用する人たちは、待合室も別だった。ナホトカまでは横浜行きの船と接続していて、ハバロフスクまでずっと列車だった組と合流した。

 イルクーツクから飛行機で来たのは私たちだけだったが、モスクワから飛行機で東ドイツなど東欧圏から来た人や列車組のバックパッカーが増えた。それまでスーツケース組が多く私たちは目立っていたから、どこかホッとした。日本人も何人かいた。ハバロフスク駅構内で、きっと日本人だろうと思っていた男性と同じ列車になった。


 列車は外国人だけで固められていて、日本語に上手なインツーリストの人がついていた。同じコンパートメントの人はポーランド人。ドイツ語しかダメであまりは話さなかった。一人派手な格好をした美人はハンガリーかチェコの人で、完全に砕けた格好の連中はスイス、フィンランドなど。

 ハッシッシを持ってソビエト入りし、列車内で吸っていたというファンキーなスイス人もいた。夕食はいくらかサービスのよい列車内で。早々と寝間着に着替えて夜10時ごろには寝た。
〈列車内泊〉