1987年(昭和62年)4月18日(土) モスクワ→イルクーツク

 

 列車に乗って3日目。もうすでに飽いた。1泊ぐらいがちょうどよく、2泊が限度だ。ナホトカまでまっすぐ列車にしなくて良かった。そうなら7日間乗りっぱなしだ。

 今日東シベリアの首都ノボシビルスクに着く。現地時間で昼の1時過ぎだ。モスクワから一緒のビジネスマン風お兄さんが降りる。今朝早くオムスクという駅でおばさんが降り、4人のコンパートメントに3人になったと思ったら、親子づれが乗ってきた。彼らもノボシビルスクで降りるから寝台をとる必要はない。

 子どものほうはちょっと変わった感じで、目つきがおかしい。夫は喋れないのだろうと言った。でも私たちの方を好奇心を隠し切れずに見る。普通の子どもと同じように。私は卒業生の上田君を思い出した。どこか似ているのだ。喋れないかと思えば話すし、ちゃんとお母さんの言っていることを理解しているようだ。自閉症かなと思った。

 お母さんが私たちに涙ながらに何かを訴えた。胸につかえていたものを一気に吐き出すように。ちょっと過保護すぎるような気がした。私たちはどうしていいかわからず、日記帳に何か書きつけた。きっと何かを援助してほしいということだろう。後でロシア語の分かる人に読んでもらおう。
 

 その男の子にケンタッキーおじさんのついているプラスチックのスプーンをあげた。そしたら今度はお母さんがボールペンをくれた。私たちにとって珍しいものではなかったが、その気持ちがうれしかった。別れ際に思いついて折り鶴と千代紙をあげた。ビジネスマンのお兄さんにも。この人ちょっと冷たい感じだったが、よく気が付くし映画俳優の誰かに似ていた。ヨーロッパの毛唐より親密さを感じるのはなぜだろう。同じ中央アジアがルーツだからかもしれない。
 食事を運んできてくれる人はデビット・ボウイに似ている。本人は知っているだろうか。この人から間違って食事代を2倍払わされたけど。


 ノボシビルスクでまた二人乗ってきた。一人は度のきつい眼鏡に髪はぼうぼうの言語学の先生、学者さんとは違うようだ。もう一人は長身のおとなしいおじさん。先生は私たちが日本人と知っていろいろ話しかけてくる。彼はドイツ語となまりのある英語を少し話せたから、いくらか通じた。たちまち列車内でロシア語講座。発音がややこしい。決して悪い人ではないが、ちょっとせわしくなって昼食に行く。


 先生は干しリンゴを机の上にいっぱい広げ、お湯で戻して食べている。おすそ分けしてもらったが、決しておいしいものではない。こっちも紅茶をごちそうした。列車の食事は飽いてきた。   新鮮な野菜が取れないからか、便秘になった。夕食は簡単にすませ、10時半には眠った。
 

 しかし、夜中の1時過ぎに目が覚めてしまった。ちょっと大きな駅でざわざわしている。この列車一日に1本だが、けっこうコンパートメントは混み合っている。駅ごとにコンピューターがあるわけではないだろうけど、寝台が余ることもなければ足りずに通路で眠る人もいない。どうやっているのだろう。恋人との別れのシーンもあった。それからしばらく眠れなかった。〈列車内泊〉