1986年(昭和61年)10月20日(月) イドラ島

 

 珍しくパチッと目が覚める。8時半ごろだった。昨夜は異常に車のクラクションがうるさかった。かなりスピードを出していた様子で、暴走族のようだった。観光都市として急激に発展したアテネは、ギリシアのほかの街と比べ豊かだろうが、都会にありがちなストレスも多い。きっと、日本のように物は豊かだが、精神的に貧しい若者の不満が爆発しているのだろう。
 

 さて、迷いながらも今日アテネを発ち、イドラ島へ行くことにした。10時がチェックアウトだから、朝早くから夜遅くまで開いているカフェでおいしいサンドウィッチを買い部屋で食べる。急いで荷物をまとめ背負ってシンタグマ広場まで行った。
 銀行で換金してから、トーマスクックの時刻表を捜したが、イタリアかイギリスにしかないという。オモニア広場のGPOで私たち宛ての郵便物を捜したが、それもなかった。
 

 それから地下鉄に乗って船の出るピレウスへ向かった。地下鉄と言っても一区間だけが地下であとは地上。郊外電車のようだった。途中の景色はシンタグマやプラーカのようにツーリスト向けに飾り立ててなく、普通の人たちが住んでいる、日本の中小都市郊外の風景と似ている。
 ピレウスは大きな港でたくさんのフェリー、船、ボート、ヨットが並んでいる。さすが地中海・エーゲ海の国。でも私たちが行くイドラ島行きの船乗り場がどこか全く見当つかない。こういう時インドだったら誰かが声かけてきただろうけれど…たくさんのエージェントが並んでいるところはどれもクルーズやエジプト・イタリア行きの船を扱っている。聞く人がいないのでその中の一軒に入ったら、ぶっきらぼうに答えられた。知らないと。


 お金をたくさん払う人か団体向けなのだろう。ヨーロッパの個人主義か?こっちへ来て人との関わりが少ないからなおさら寒々とした感じがする。 それとてオモニア広場で声かけてきた紳士風の人は日本の話を持ち掛けてきて「コーヒーでも」と誘われたが、下心があるのがわかるので「時間がないから」と断ると、手のひらを返したように知らんぷり。カモでないと分かって取り繕いもしない変わり身の早さにゾッとした。ただ、シンタグマ広場からオモニアへ行こうとバス停をウロウロしていたら、「(オモニアまで)エナ(1番のバス)!」と教えてくれた足の悪いおっさんもいたから、意地の悪い人ばかりではない。
 

 ぶっきらぼうでも2時にイドラ島行き高速ボートがあるとわかった。フライングドルフィンと言って速いから片道1300ドラクマもする。クレタ島までとあまり変わらない。私は思い切って今夜クレタ島行きのフェリーに乗ろうと言ったが、夫はどうしてもイドラ島に行きたいらしい。口論になるが結局私が折れて「イドラ島へ行こう」と言うと、夫は「クレタ島でもいいよ」と言う。どうしてすぐ反対のことを言うのだろうか。


 大枚2600ドラクマ払い船着き場までタクシーに乗ったら、助手席に相乗り客がいた。メーターは180だったのに200と言った。「どうしてか」と聞いたが、よくわからない。ボラれたということか。ボートは確かに速かった。でも空は曇って雨もまじり快適とは言えなかった。こんな日にクルーズとかしたらもったいないだろうなぁ。
 そんな日本人の団体客がイドラ島の土産物屋にいっぱいいた。彼らは日帰りだろう。お土産をあさっている日本人を尻目にホテル探し。ソファばあさんのいるホテルはFullらしい。言葉が通じず不便だ。その先のペンションはとてもきれいで居心地よさそう。二人で1700ドラクマ、夕食にギリシア料理のムッサカやワインで800ドラクマと安かった。夜は車がないから静かだった。
〈Pension Agelika〉