彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。(ヨハネ8:44)




偽りの父とは、悪魔のことです。





しかし、このわたしは真理を話しているために、あなたがたはわたしを信じません。(ヨハネ8:45)




神のみことばを、よく知っている人たちなのに、イエス様の話を信じられない。




神のみことばを受け入れるとは、どういうことなのでしょう。





神を知っていると言いながら、その命令を守らない者は、偽り者であり、真理はその人のうちにありません。(第一ヨハネ2:4)




神を知りながら、主を憎み、隣人を傷つける道を歩いているとしたら、その人の内には真理がない。




しかし、みことばを守っている者なら、その人のうちには、確かに神の愛が全うされているのです。それによって、私たちが神のうちにいることがわかります。(第一ヨハネ2:5)




神を知っていることと神のうちにとどまっていることは、同じではありません。





だれでもキリストのうちにとどまる者は、罪を犯しません。罪を犯す者はだれも、キリストを見てもいないし、知ってもいないのです。(第一ヨハネ3:6)




私たちには罪があります。




しかし、本当にキリストのうちにとどまり、キリストがうちにとどまってくださるなら、罪を放置できなくなる。





もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。(第一ヨハネ1:9)




こうしてみことばにとどまって、神を愛し、まわりの人たちを愛する歩みが保たれてゆきます。




「悔いあらためたから、もう罪はありません」と言いながら、もし同じ罪を繰り返して、まわりの人たちをさらに苦しめ、痛め続けてしまうとしたら…




神を知っていたとしても、キリスト・イエスから離れています。




こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。(ヘブル12:1)




さあイエス様にとどまって、みことばを守って歩んだ人たちの通った道を歩いてゆこう




聖書は、そう勧めています。




そうした人たちこそ、御霊の人と呼ばれる人たち。




神の御霊に導かれ、キリストのうちにとどまる 私たちでありますように。




神を愛し、まわりの人たちを大切にする毎日となりますように。




愛する主イエス・キリストのお名前によって祈ります。




amen (^^)   




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