京都には室町時代に創建された
大徳寺大仙院がある。
そこに臨済宗大徳寺派の大本山である大徳寺大仙院の住職・尾関宗園先生という方がいらっしゃる。
実際に足を運んだ人は知っていると思うが、
大仙院には枯山水庭園があり、庭園の中央に石が置かれている。
昔,高校生が、何の変哲もない石であり、その石の上に乗っかって遊んでいたのだ。すると、それを見つけた尾関先生にこっぴどく叱った。
「何で石に乗るだけで怒られるんだ?」とその高校生は思ったそうだが、
そこから尾関先生が枯山水にまつわる話をしてくれたそうだ。
「天から、雨水が降り落ちる。
高い峰に降り落ちたひとしずく、
ひとしずくが、やがてごうごうたる激流となって、
山はだをかすめ、谷を下り、大河となって流れる。
苔のはえる岩と岩のあいだを静かにぬい、
周りに広がる緑ししたる木々のあいだを悠然と過ぎて大海へと流れてゆく」
「枯山水の前にすわっていると、
いつのまにか流れの間に間に従って水が流れ、
その流れゆく水が自分の心にいっぱいになって広がり、
どこともなくまた流れ去ってゆくのを感ずるのだ」
当たり前だが、ただの庭園でもなければ、
ただの石でもないということだ。
造った人の想いや、
大事にしてきた人の気持ちをまったく知らずに、
石の上に乗って遊んでいればそれは怒られて当然。
野球で置き換えてみたら、
毎日心を込めて整備しているグラウンドに、
部外者が何のあいさつもなくズカズカと入り込んで遊んだり指導していたら、
誰だって腹立たしい気持ちになるだろう。