
ウジェーヌ・ビュルヌフ(一八〇一~一八五二)は、フランスのインド学の泰斗である。父親ジャン=ルイ・ビュルヌフも高名なギリシャ文法学者であり、本文にもある通り、サンスクリット語にも通じており、ウジェーヌ・ビュルヌフに最初にサンスクリット語の手ほどきをしたのは父親であっただろうと考えられる。彼の類縁であるエミール・ビュルヌフも高名なインド学者であるが、時代背景もあってか、いわゆる「アーリア至上主義」に傾いた人物としても知られている。
本著は二部構成になっている。第一部は、友人であるバルテルミー・サンティレールによるものだ。ウジェーヌ・ビュルヌフの死後に彼の代表作である『インド仏教史序説』が再刊されたが、その巻頭に掲載された文章を訳したものである。もともと、この追悼文は、ビュルヌフが逝去した年に『ジュルナル・デ・サヴァン』で掲載され、それが転載された。
作者のサンティレールは、ジャーナリストとして出発した古典学者であるが、一時は政治の世界にも足を踏み入れたという、きわめて活動範囲の広い人間であった。主著はアリストテレスの翻訳と注釈であるが、仏教やプラーナ文献やコーランについても著作がある。
サンティレールは、学生時代からウジェーヌ・ビュルヌフを知っていたようだ。本著は、友人としての温かい視線に満ちており、若すぎる死を悼む気持ちを本文の中で何度も吐露している。同時に、古典学者としての視線で、ウジェーヌ・ビュルヌフの成し遂げたことがいかに偉大であったかを縦横に語っている。
第二部は、ビュルヌフの弟子であったトリスタン・パヴィによる解説である。内容的に第一部と重なる部分もあるのだが、サンティレールとの大きな違いは、『妙法蓮華経』の評価であろう。サンティレールが、この翻訳に時間を使うより文献学から見た仏教史の全容解明に注力して欲しかったと述懐しているのに対し、パヴィはこの経典の価値を高く評価し、『インド仏教史序論』と『妙法蓮華経』の翻訳は対をなすものであると断定している。
私がこの翻訳を思い立ったのは、日本でほとんどビュルヌフの名前が知られておらず、業績についての言及もほとんどないためである。ビュルヌフは近代仏教学の創始者とされており、これほど仏教学が盛んな日本にあって、これは少々奇妙なことだと思い、何かの参考になればという思いで、自分の非力も顧みず訳した次第である。
最後に蛇足。ウジェーヌ・ビュルヌフとほぼ同時代を同じ場所(パリ)で生きた文学者がいる。オノレ・ド・バルザックだ。彼はビュルヌフの二年前に生まれ、同じくビュルヌフが逝去する二年前にこの世を去っている。つまり、二人は同じ期間だけ生きたということだ。コーヒーをがぶ飲みしながら徹夜で小説を書き、寝る時間を惜しんで社交界に頻繁に出入りし、大借金を残して死んだ文学者。自室に閉じこもって、時間的にも空間的にも遠く離れた世界の言語と思想の解明に一生を捧げ、その研究成果をほとんど発表することなく死んだ文献学者。大革命からナポレオン帝政、王政復古、七月革命、二月革命と、混乱・混迷が続く時代を駆け抜けた二つの巨星が、妙に重なって見えるのは私だけか。
以下、目次を記す。
目次
天才東洋学者 ウジェーヌ・ビュルヌフ
第一部 ウジェーヌ・ビュルヌフ氏の業績
バルテルミー・サンティレール 著
白鬼火 訳
第二部 ウジェーヌ・ビュルヌフ氏の仕事に関する解説
トリスタン・パヴィ 著
白鬼火 訳
第一部 ウジェーヌ・ビュルヌフ氏の業績(B・サンティレール)
第一章 人生の軌跡
たぐいまれな業績
学問の出発点
最初の著作
仏教理解のカギとなったパーリ語
乏しい情報の中で身に着けたサンスクリット語
ヨーロッパにおけるサンスクリット語の広まり
サンスクリット語の重要性
高等師範学校の教授職
第二章 イラン学とインド学
ヤスナの意義
アヴェスター写本のたどった道
ゼンドとは何か
ゼンド語はどうやって復元されたか
『ヴェンディダード・サーデ』の出版
ゼンド語再生の意義
楔形文字碑文への波及効果
『バーガヴァタ・プラーナ』の翻訳
なぜ『バーガヴァタ・プラーナ』が選ばれたのか
『インド仏教史序論』はなぜ偉大な仕事なのか
未刊に終わった第二巻と法華経の翻訳
仏教とは何かという根本的問い
年代史の導入
第三章 遺稿と結語
ゼンド語関連遺稿
楔形文字関連遺稿
サンスクリット語関連遺稿
パーリ語関連遺稿
ネパール仏教関連遺稿
公的職務
教授としての功績
独特の方法論
最大の業績-比較文法
第二部 ウジェーヌ・ビュルヌフ氏の仕事に関する解説(T・パヴィ)
まえがき
1
学者としての出発点
『ヤスナ注解』とアンクティル=デュペロンの貢献
ゼンド語復元の方法
パーリ語および仏教の歴史的伝搬過程の解明
楔形文字への挑戦
2
『妙法蓮華経』翻訳までのいきさつ
『インド仏教史序論』の重要性
ネパール古写本から導き出された仏教思想
『バーガヴァタ・プラーナ』の刊行
学問的厳密さと審美眼を併せ持つ感性
我々に残されたもの