部族の行政および司法上の仕事は、カピラヴァットゥにあった公会堂(サンターガーラ)で、老人と若者が出席した集会を開催して実施されていた。前述のパセーナディ王の提案が討議されたのも、このような議会または懇談会であった。アンバッタが仕事でカピラヴァットゥに行ったとき、彼は公会堂へ行ったが、そのときちょうどサーキヤ族の集会が行われていた。アーナンダがブッダの死を知らせたのもマッラ国の公会堂であり、彼らは集会を開いてそのことについて話し合った。
1人の首領が、集会の議長を務める役人として選出され(選出方法や任期については不明)、集会が開催されないときは国を統治した。この役職名は「ラージャ」と呼ばれたが、これはローマ時代の執政官またはギリシャのアルコン(支配者)という意味に近いと思われる。リッチャヴィ族がやっていたような三頭政治の役職に当たるものはなく、前述の実在の国王がやっていたような国王主権による決議もなかったようだ。しかし、ブッダの年下の従兄弟であるバッディヤがラージャであり、別の文章ではブッダの父親のスッドーダナがラージャと呼ばれていたというのが同一文書(律蔵2.181)で同時に出てくる(別に史料では「サーキヤ族のスッドーダナ」という単なる平民とされている)。
カピラヴァットゥに建造された新しい公会堂は、ブッダが、近くの大きな森(マハーヴァナ)のニグローダーラーマ(バヤン林の遊園)に滞在している間に完成した。ここには、全ての宗派の出家者のために、町が住宅を寄贈していた。ゴータマは、新しい公会堂の落成式を行うように求められ、彼とアーナンダとモッガラーナが道徳的な説教を夜通し垂れて落成式とした。その説法はM.i.353以下とS.4.182以下に全文が残っている。