今回も味ノマチダヤについて書こうと思う。それだけお世話になったということだ。
1986年ごろ、「美味しんぼ」の原作者雁屋哲さんに紹介いただいた、中野の上高田にある地酒屋が、マチダヤさんだった。
ご主人の木村寿成さんは細身で眼光鋭い硬骨漢で、当時60歳ぐらいだったように記憶する。
今でこそ、地酒を置く酒屋は当たり前になったが、当時、全国の地酒を直接買い付け、しかも冷蔵庫に保存して販売するというお店は、ほぼ無かった。私のとって日本酒は、菊正宗や剣菱で、地酒は越乃寒梅ぐらいしか知らなかった。
だから、木村さんが世話役をしていた「酒仙の会」やお店の奥のご自宅の居間でいただく、天狗舞や菊姫の美味しさに度肝を抜かれた。これが本物の日本酒なのだと、しみじみ感じたものだ。
当時、世間で流通している日本酒は、それらに比べると、日本酒もどきで、戦後の物資不足の時代に認められた、三倍増醸酒がほとんどだった。これは、米と米麹で作ったもろみに、清酒と同じ度数に薄めた醸造アルコールを入れて、味の調整をするために、糖類や酸味料、グルタミン酸ソーダを添加した代物だった。この中には、脳に悪影響を与える成分の入った薬品も添加され、それを製造していた大手製薬会社Tの社員は、絶対に飲まなかったそうだ。
木村さんは、そのような話を嘆きながらしてくださった。他にも、即席醸造をされている、味噌・醤油がほとんどだったので、これらについても憤っておられた。
木村さんは、紳士で、30も年の離れた私をさん付けで呼び、丁寧語で対応してくれた。お酒を飲んでも決して乱れなかった。木村さんと私の関係は、最初は先生と生徒のようだった。そのうち、私が「酒仙の会」例会やご自宅での教えなどで知識を増やしていくと、だんだん友達のような関係になっていったように思う。
また、木村さんは筆まめで、よくお手紙をいただいた。理系の方なので、横書きの便せんにびっしりと、ご意見や考えが書き連ねられていた。いまでも、何通かは持っている。
木村家には当時、小学生のお孫さんが三人いらっしゃり、いずれも女性だった。そのお孫さんとの関係も、今の”じいじばあば”という大甘の関係ではなく、お孫さんそれぞれを、ひとりの人格として尊重しながら接しておられたように思う。この辺りも木村さんらしいところだった。
私が1990年初頭に大阪本社勤務になってからは、少し疎遠になってしまったが、電話では時々話をしていた。体を壊して、食欲がなくなったとご家族から聞いたので、東京出張の折に、大好きな鰻を野田岩で、天然物のかば焼きを予約して、持って行ったのだ。すると、数日後、ご家族から電話があり、その鰻をきっかけに、食欲が戻ってきたというではないか。この時食べ物の持つ力を強く感じたものだ。
鰻と言えば、木村さんは、中野からはるばる足立区まで足を伸ばし、ある有名店の鰻を食した時のことを、怒っておられた。看板にも箸袋にも天然鰻と銘打ってあったが、店員に確認すると、養殖物だった。しかも、朝一で入店し、すぐに満席になったにも関わらず、厨房で職人は遊んでいて、20分もしないうちに、うな重が出てきたそうだ。これは、昨日のうちか、朝に焼きまでやっておいて、当日、仕上げの焼きだけをやって、出てきたものに違いない。これらは名店の名折れだと、強く憤っておられた。
そんなことを聞いていたので、野田岩で天然鰻を手配したのだ。
そのおかげで、健康を取り戻され、お元気になられたのだ。この時は本当に嬉しかった。
その木村さんも、持病と戦いながら、暮らしておられたが、20年余り前にお亡くなりになられた。
木村さんが今の日本を見たら、ごんなことを語られるだろうか?