「どの程度の被曝なら許せるか?」
原発の事故をうけて
わたしが考えたことは、それだった。
3.11
地震をきっかけにして起きた原子力発電所の事故。
最悪の事態を想定しなくても、あたりまえに東京に放射能はやってくる。
これから先の事故の状況によって、その濃度や核種の違いはあっても、
放射性物質は確実に、わたしが住んでいるところまでやってくる。
「2歳と15歳の子どもが被曝することを、どの程度までなら許せるのか?」
答えは、ノーだった。
どの程度?
程度がどうであれ、そんなものは許せるわけがない。
ここまで大切に育ててきた子どもたちを被曝させることは、わたしにはできない。
いま逃げれば、まだ間に合う。
3月14日、わたしは東京から避難する決意をした。
けれど、息子の中学校の卒業式は18日。
避難を決めたわたしが次にしなければならないことは、
荷物の準備ではなく、息子の説得だった。
「原子力発電所でとてつもない規模の事故が起きていて、
放射性物質がここまでやってきそうなの。
おかあさんは、こんなことが起きないように願って活動をしてきたけれど、
原発が停まる前に地震が起きてしまった。
ごめんなさい。
停められなくて、ごめんなさい。
あなたとちっさいのを被曝させるわけにはいかない。
西へ逃げようと思っているの。いますぐに。」
15歳の息子には、事故の進捗を逐一伝えていた。
彼には放射性物質の怖さも伝えてきたつもりだった。
「嫌だ。なに言ってるの? 卒業式はすぐだよ」
「ごめんなさい。卒業式には出られないよ」
「嫌だ、俺は東京を離れない。このままここで暮らしていく。
どうせ、本当のことなんて知らされないんだろ?
このままここでの日常は続いていくよ。
なのに、なんで俺だけ避難しなきゃならないの?
みんな逃げたりしないよ。嫌だ。俺は嫌だ。
病気になってもいい、癌で死んでも構わない。」
息子のその気持ちはとてもよくわかった。
当たり前に続いてゆく日常の中から、突然自分だけがいなくなる。
どれほど説明しても、目に見えず匂いもない放射能は、
彼にとって物語や映画の中の敵のような存在なのかもしれない。
目に見えない放射性物質が身体に与える影響の怖さより、
リアルな日常の中から自分だけが消えてしまう恐怖の方が勝っていたのだろう。
「おかあさんは、俺の身体のことは心配してくれるけれど、
俺のこころのことは全然心配してくれない。
たとえ元気でいられたとしても、俺のこころは傷つくよ。
避難して何も知らないところに行って、一から始めるの?
卒業式だよ、卒業式に出られないってどういうことかわかるの?」
ただただ、謝るしかなかった。
それほどまでに危険な原発を、事故が起きる前に停められなかったことを
謝り続けるしかなかった。
どうしてこんな思いをしなければならないのか。
なぜ、住み慣れた場所を離れなければならないのか。
こんな思いをこの先どれだけの人びとがするのだろう。
事故によって受ける健康被害と、子孫へ与える影響。
強引な避難によって受けるこころの傷。
そんなことを比較して、
どちらが軽いか、どちらが重いかなんて、決められるわけがない。
避難することによって受ける悪影響と
避難しないことによって受ける悪影響。
ただただ想像するしかないのだ。
ありったけの想像力を駆使して、
子どもたちが、すこしでもしあわせでいられる未来を選ばなければならない。
ひとりの母親として
連綿といのちをつないできた人という動物の一員として。
突然、事故が起きて、そんな究極の選択が目の前に突きつけられた。
どうしても被害者としての意識がわき起こり、そう感じてしまうけれど、
ほんとうは突然なんかじゃないのだ。
この問題は、
この国に暮らす大人のひとりひとりが
きちんと決断をするべき時に決断をせずに
知らないフリをしてズルズルと暮らしてきて
「生きていくこと」そのものから目をそらしつづけてきた結果だ。
選択をしないことを選択し続けてきた
社会の問題を自分の問題として認識し責任を持ってこなかった結果が
今回の事故として現象化しているだけだ。
長い長い話し合いの末、
わたしは息子に嘘をついた。
「原発事故が落ちついたら帰ってきたらいいから、とにかく今はここを離れよう」
「卒業式に出られる?」
「放射能が落ちついていたら」
卒業式まではあと4日。
落ちつくわけがないことを知りながら、息子を連れ出した。
車で移動を始めてからも、
わたしと息子の会話は「帰りたい」「帰れない」その繰り返し。
そのたびに、いま起きていることを説明をして、だから逃げているのだよ、と告げる。
「これまでわたしは母親として、あなたの身体が健康に育まれるように努力をしてきた。
わたしはあなたの親として、あなたを被曝させることはできない。
もしも東京に一人で帰るというならば、わたしと親子の縁を絶ちなさい」
息子は「わかった」と納得する。
だけど数時間後には「やっぱり帰りたい」がはじまる。
彼の気持ちがわかるだけに、この対話はつらく重いものだった。
避難生活の初日の夜は、名古屋の友人のマッサージのお店に泊めていただいた。
息子との話し合いはひたすらに続いていた。
わたしの言うことを半分くらいは理解していた息子は、
2日目の夕方、東京に戻ることをあきらめてくれた。
その間、どれだけふたりで泣いて、話して、叫んだことだろう。
息子が最も許せなかったことは、わたしが嘘をついたことだった。
「事故が落ちついたら東京に戻って卒業式に出てもいい」
4日で落ちつくはずがないことを知りながら、彼を連れ出すためにわたしがついた噓。
「たとえ、いのちのことであっても。噓をついたことが許せない。
おかあさんは、いつも俺に嘘をつくなと言うじゃないか」
「もしもわたしが嘘をつかなかったら、あなたは一緒に来た?」
「来ないよ。俺は東京で学校に行っていた」
東京に戻らないことを決めたあとも、わたしたちはたくさんの涙を流した。
子どもたちになにを伝え、なにを彼らにつないでいくのか。
わたしたち大人は
そのことと本気で向きあわなければならない。