ことばを喪う日々。01 〜わたしの311〜 | 311〜 この島をみつめて

311〜 この島をみつめて

この美しくも不思議な島を、ファインダーを通して見つめつづけてきたフォトグラファー内藤順司と
目を瞑って内側から見つめつづけてきた春名尚子。日本という島の現在とこれからの世界をみつめる旅の記録。




あれからのことを書き記そうとしても
キーボードを叩く指が止まってしまう。


わたしは自分の内側から出てくる
ことばを喪っている。


それはまだ、わたしのこころが揺れているから。


わたしが書くこと、書きたいこと
わたしにしか書けないこととはなんなのだろうと
あれからずっと考えている。


わたしが書きたいことは
きっと「生きること」そのものすべてなんだ。


これからどのように生きていけばいいのか
わたし自身が悩んでいる。

その選択で、ほんとうによかったのか
もっとほかにするべきことがあったのじゃないか
もっとほかにやらなければならないことがあったのじゃないか

これをしたほうがいいのじゃないか
これをしないほうがいいのじゃないか

これから先、どのように生き、
どのように子どもたちと接し、どのように人と接していくのか。

頭の中には答えなんてない。
まだまだひとりでぐちゃぐちゃしている。

だから、書くということができないまま

もう2011年が終わろうとしている。


「きっとみんなそうだよ。書けないことを書けばいい。
 揺れていることを、そのまま書けばいいよ」 

内藤さんは、そう言ってくれる。


「被災地に入って、写真を撮影していても同じことを感じていたよ。
 いまできることを、やるしかないんだよ」

そんな言葉に背中を押されて、「書けないということ」を書いてみようと思った。
そんな自分の弱さを、さらけだすようなことを記してみようと思った。

書けないっていうことを
揺れているわたしのこころを
そのままに書いてみるね。



            *



あの日、息子はわたしを職場まで迎えに来てくれた。
3月11日のあの夜。

電話はつながらなくて、電車も動いていなくて、
わたしは職場にいなきゃならなくて。

19時までには、2歳の娘を保育園に迎えに行かなければならない。
鹿児島からマッサージを学ぶためにやってきて、
うちで一緒に暮らしていたAちゃんが、職場を早めに出て車で向かってくれたものの
ものすごい渋滞で19時には到底保育園に着くことはできないだろうという
そんな状況だった。

保育園とも、息子とも、出発してしまったらAちゃんとも電話はつながらない。
娘は保育園にいる時間帯だから、大丈夫だろうと安心はしていた。
でも息子は学校にいるか、帰宅中か、すこし微妙な時間帯だった。
ふたりの子どもの心配や築85年の自宅が崩壊していたらどうしようとか、
そんなことまで考えながら。ひとり職場でやきもきしていた。


ずいぶん時間が経って、Aちゃんからの電話がつながった。

「ふたりとも何ごともなく無事です。
 絶対に間に合わないと思ったから、念のために先に家に向かったんです。
 家に着いたら、ふたりともいました。
 おにいちゃんが保育園にお迎えに行ってくれてました」

よかった。



「おかあさん、大丈夫? ちっさいのは大丈夫だから。
 これから、みんなで迎えに行くから。そこで待っててね」

電話の向こうの息子の声が、いつもよりたくましく聞こえてきた。

「これから、みんなではるさんを迎えに行きます。
 みんなで一緒に行こう、離れないでいようって、おにいちゃんが言っているから。
 ふたりを乗せて向かいますね」

涙をぬぐいながら、電話を切った。

当時、わたしはホテルのスパの中にあるヒーリングサロンに勤務していた。
本社は都心にあったので、わたしのいた郊外の店舗よりも、ひどく混乱していた。
オーナーとスカイプで連絡を取り合い、社長とも仕事の段取りなど打ち合わせて
帰宅困難なスタッフの宿も手配できた。
職場をあとにできるようになった時には22時をとうに越えていた。


迎えに来ると言っても、道は渋滞しているからどれくらいかかるかわからない。
つながらない電話にやきもきしながらも、建物の中で待っている気持ちになれなかった。
きっと、一瞬でも早くみんなの顔を見たかったのだと思う。
わたしは外で待っていた。


とても寒い夜だったね。


東京とは比べものにならない寒さの中で、助けを待っている人たちがいる。
海があふれて、さまざまなものを飲み込んでゆく映像がくり返しまぶたに映っていた。
波に運ばれて海の中にいるひとも、いるのかもしれない。

すこしでも寒さが和らぐように
すこしでも暖かくいられますようにと
空を見上げて想うことしかできない。



車が駐車場に入ってきて、わたしの前で停まった。

わたしの顔を見てホッとしたのか、笑顔になった息子は
「おかあさん、はい、これ食べて」と、とろろ昆布の袋を手渡してくれた。

「ちっさいのには、おにぎりに入れてもう食べさせたから」

寒い駐車場で、車に乗るよりも先に、とろろ昆布を息子から手渡されて、
わたしはそのまま立ち尽くしていた。




「大きな地震が起きたら、原発が事故を起こすかも知れないから
 たとえ事故の情報がなかったとしても、まずはとろろ昆布を食べなさい」


そんな日が現実に来ないように祈る気持ちと同じくらい
大地震と原発の怖さを、息子には折に触れて話して聞かせていた。




そんな日が、現実に来てしまったなんて
子どもたちにどう伝えればいいのだろう。






息子の部屋に転がっていたのは
とろろ昆布と戻ることのない主を待つラケット。(2011.11)






突然の避難によって時が止まった家 (2011.11)