当たり前に疑いようもなく良いと
思っている何かが自分を不幸にする
ものになることもある。

"感謝をすることとか
ために生きるということとか

そんなのどこからどう考えても
少しの疑いようもなく当たり前に
大切で良いものに決まってるでしょ"

そう思っていた。

でもその考えが自分を不幸にする
入り口となっていった。

"少しの疑いようもなく当たり前に
大切で良いものなのだから

感謝の言葉を言ったりために生きたり
することは当然のことだし誰もがそう
思っているでしょ"

そんな考えからまるで感謝の言葉を言ったり
ために生きたりするという法律が存在する
かのごとくに思うようになっていき

感謝をすることやために生きるということが
自分自身を不自由にして不幸にするものに
なっていった。

感謝をしたりために生きなければ
誰かに非難し裁かれるような気がして

はじめは好きでやっていた感謝をするとか
ために生きるということが義務ように
なり

いつも他人を警察のように見張り感謝や
ために生きるということをしない人を
見つけるたびに非難し裁くようになっていて

いつも不安や恐怖や腹立たしさを
感じるようになっていた。

そんな風にして生きていたわけだから
疑いなく当たり前に大切で良いことを
やっているはずなのに

何故かやればやるほどに窮屈で苦しくなる
といった状態になっていた。



"感謝をしたりために生きたりすることは
疑いようもなく当たり前に大切で良いこと
なのだし皆もそう思っていて皆も当たり前に
やっているでしょ"

そう思っていたけれど、
その考えはあくまでも私自身の考えであって
私が勝手に好きで採用している考えに
過ぎなかったのだ。

だからこそ私と同じ考えを採用していない
人だっているわけで、そんな人が悪者になる
というわけでもない。

自分が絶対だと思っているものでさえ
それは万人にとっての絶対ではないわけで

万人にとっての絶対だと思えばどんどん
目的がズレていき自分を不幸に陥れることに
なってしまう。

感謝をするとかために生きるということ
なんて明らかに疑いようもなく大切で良い
ことだと思っていたから

それを苦しみや違和感を生み出している
原因として疑うということすら
思いつかなかった。

"私は法律を守っているのだから法律に違反
している人達の方が悪いに決まっている
じゃない"

自信たっぷりにそう主張して私の苦しみや
不幸は私を腹立たしい気持ちにさせる
法律に従わない人達のせいだと思っていた。

でも私の苦しみや不幸は
全部私自身のせいだった。


絶対なんてどこにもない。

そのことが分かったら私の世界から法律が
なくなって感謝をするとかために生きる
ということから自由になった。

すると感謝をするとかために生きるという
行為に主管されるのではなくて私がその行為
を主管することができるようになり

これまでは感謝をしたりために生きたり
しても窮屈さや苦しみしか感じなかったのに

感謝をしたりために生きたりすることで
物事がスムーズに流れるようになり
喜びや幸せを感じることができるように
なった。

感謝をするのもために生きるのも
私がやりたい時にやりたいだけやればいい。

他人がやろうがやるまいがそんなことは
どうでもいい。


いつだって幸せを見失う原因は自分自身。

だからどんなに最もそうな主張をして
他人を裁いたって幸せはやってこない。

でも絶対があると思い込んでいるとその自分
の主張を絶対だとして疑うということすら
思いつかないから厄介だ。

誰かをコントロールして
絶対で縛り付けたくなった時には

"絶対なんてどこにも無いんだよ"

そう言って自分自身の目を覚ましてやろう。

他人なんて攻略しなくてもいいから
自分を攻略して幸せになっていこう。