考えることをやめて感じてみたら
全く魅力を感じていないものを
握りしめていることに気付いた。

考えることをやめて感じてみたら
自分に苦痛を与えてくるだけものを
大切に握りしめていることに気づいた。

考えることをやめて感じてみたら
ゴミを沢山抱えているにも関わらず
それを宝物だと思い込んで生きている
ことに気づいた。

"これは良いことなのだ"
"これはためになることなのだ"

という思考の声を完全に信頼して
頭ばかりを動かして感じるということを
していなかったから

自分が苦痛や違和感を感じている
ということにも気づかなかったのだ。

思考の声だけを聞いて生きていた時には
目の前にあるものが宝物だと思い込んで
いたから

自分は喜びを感じて満足できている
ものだと思い込んでいた。

でも思考の働きを停止させて目の前にある
ものを感じるということを始めてみた時

喜びを感じるどころか苦痛を感じていて
満足するどころか欠乏感を感じている
ということに気づいた。

感じてみれば明らかに分かるような苦痛に
気づけないほどに思考が優位になりすぎて
いたのだ。

それはもう機械的に動く
ロボットのようなものだ。

何をやるにも頭の中で

"これは良いものだ"
"これはためになるものだ"

と考えるだけで感じて味わう
ということをしない。

だから全く心に残らないし
心は満たされない。

頭ばかりを動かしてやったことって
思い出しても記憶の中の映像には
彩りがないし

思い出しても喜びも感動もなく
ただ機械的に作業のように映像を
見つめているだけといった感じだ。

感じるということを始めていった時
これまで結構色々と頑張って
やってきたのに

人生において積み重ねてきたものが
何の喜びも感動も感じないものだったのか
ということに気付かされて悲しみや絶望や
怒りの感情が湧き上がってきた。

そしてもっとちゃんと感じるということを
続けていって本気で人生を変えていこうと
思った。


思考の声は知らない間に頭の中に吸収
されて自分に影響を与えてくるような
外側の声。

外側には一定しない様々な声が
溢れている。

だからこそ思考の声を聞いていたら
振り回されることになってしまう。

でもただ生きているだけでも沢山の
外側の声に触れてしまい思考が働き続けて
しまうような環境圏で生きているから

意識しなければ感じるということを
忘れてしまい自動的に思考の声を聞き続けて
しまうような状態になってしまう。

外側の沢山の声が絡み合った思考の声を
聞いていると人生があまりにも複雑で
難しいもののように思えてくるけれど

意識して思考の働きを停止させて
感じるということを続けていると

人生って案外シンプルなもので
必要なものって本当に少ないんだな
ということに気付かされる。


感じるということを始めていった時に
自分だけの何かが見つかって

何の彩りも豊かさもなかった日常の中に
彩りや豊かさが現れてくるようになった。

感じるということを始めていった時に
自分に苦痛を与えてくるだけのものを
手放していくことができるようになり
身体の不調が改善されていった。

感じるって、こんなにも
大切なことだったんだ。

もっと感じて味わって
人間らしさを取り戻して

人生をより彩りある
豊かなものにしていこう。