自分を全肯定するって
思っていた以上に重要だった。

自分を肯定した分だけ器が広がって
自分を出すことができるようになる。

自分を肯定した分だけ行動範囲が
広がってできることが増えていく。

都合よく自分の一部だけを肯定していたら
小さくて狭い器の範囲内でしか動けないから
中途半端なことしか起こらない。

それに自分を肯定できていない分
やりたくないことをやる羽目になる。

自分を全肯定できていない時って
どうしても自分以外の何かを通して
他人に自分のことを肯定してもらおうと
してしまうから。

やりたくないことって
その何かにしがみつくために
やっていること。

自分を肯定せずに無難に出せるような
どうでもいいものを出したって

そうそう都合よく望んでいるものは
返ってこない。

本当に望んでいるものが欲しいなら
本当に出すべきものを出していかなきゃ
ならない。

それは自分を全肯定して初めて
できること。


 
非難したり裁いたりしたくなる他人は
自分が肯定できていない自分の何かを
教えてくれているもの。

だからこそ非難や裁きをすればするほどに
自分の器の広がりを止めて行動範囲を
狭めることになってしまう。

非難や叫びは全肯定してもらえていない
不自由な自分からの苦しみの叫びだよ。

たとえやりたいことを見つけたとしても
自分を全肯定できていなければ

自分を肯定できている分の器の範囲内でしか
動けなくて本来出すべきものを出し切る
ことができないから

中途半端なことしか起こらないし
中途半端なものしか返ってこないし
中途半端にしか楽しめない。

そして中途半端にしか満たされていない
心を他人からの肯定をもらうことで
満たそうとしてしまうから

やりたいことを始めたはずなのに
いつの間にかやりたくないことをやっていて
苦しみを感じるとか

やりたいことを始めたはずなのに
楽しいと思えないなどといったことが
起こってくる。



自分を全肯定してしまった時に
分かったこと。

私って、頭の中で思い描いている理想とは
全然違っていて、思った以上に変人だった。

でも理想通りじゃない自分を
責めるのではなくてむしろ理想を捨てて
変人な自分を認めてしまったら

理想通りになろうとすることから
解放されて変人な自分を隠すのではなく
変人として生きることができるように
なった。

そうして初めて苦痛を感じない道を選び
その道を歩いていけるようになった。

それはずっと変人だと思われることを
恐れて選べなかった道。

私も結構変人だと思うけれど
自分を全肯定してしまったら多分誰もが
皆結構変人になるんだと思う。

自分を全肯定するに当たっては
ストッパーを外しすぎるぐらいが
丁度いいのかもしれない。

自分を全肯定できていない時って
相当ストッパーをかけて狭い器の中で
別人のようにして生きているものだから。

ストッパーを外すのには
勇気が必要なこともあるけれど

自分を肯定してストッパーを外していけば
本来の自分の形がはっきりと
現れてきてくれる。

それこそが自分の個性ってもの。

形を明確にするからこそ本来ハマるべき
場所にハマることができるようになり

本来持ち合わせている能力や魅力が
発揮されてくるようになる。

だから自分を全肯定して
やりたくないことなんてやめて
やりたいことを自分らしいやり方で
やっていこう。


変人として生きてみたら
変人の方がまともだったということに
気づいたりもするものだ。