違いって、あるのが当たり前のもの。

だからこそ非難するものでも
裁くものでもない。

でも他人を見て自分との違いを見つけると
つい比較してジャッジしてしまう。

そしてただ放っておけばいいだけの違いを
良いと悪いに振り分けて喜んだり
落ち込んだりする。

それが癖みたいになっている。

そこら中に違いをジャッジする方向に
誘導してくるような言葉や情報が
溢れているから。

でも本当はどちらかが良くてどちらかが悪い
というのはただの思い込みで
両者は違っているというだけのこと。

ジャッジする必要のない違いをジャッジ
して良いと悪いに振り分けるから
問題が生じるのだ。

問題だと思っているものは問題じゃない。

だから放っておけばいい。

ただの違いなのだから
責める必要も直そうとする必要もない。


問題を解決すればうまくいって
幸せになれるんじゃなかった。

問題でないものを問題とみなして
直す必要のない自分の一部に手を加えて
わざわざ正常な自分の一部の形を歪める
なんてことをしていたから

いつまでもうまくいって
幸せになれなかったのだ。

ほんの小さな一部だとしても
それは重要な一部。

形を歪めてしまえば
正常に働かなくなってしまい
全体に影響が出てしまう。

だから問題を解決しているつもりでも
なぜか苦しくなるばかりでいつまでも
うまくいかなかったのだ。

違いを見つけるたびにジャッジして
喜んだり落ち込んだりしていたら
キリがない。

違いをジャッジをして
自分の一部を良いと判断したからって
喜んでいる場合じゃない。

違いをジャッジして
自分の一部を悪いと判断したからって
悲しみ落ち込んでいる場合じゃない。

ただ思い込みに踊らされている
ってだけなのことだから。


問題なんてどこにもない。

違いを利用してジャッジさせられて
正常なものを問題だと思わされて
振り回されているだけ。

問題じゃないのだから
解決しようとしなくていい。

違いって、個人や全体の
発展のためにも重要なもの。

だからこそ違いを無くす
なんてことはもっての外だ。


あらゆる違いをジャッジすることなく
ただ認めて眺めていられるようになったら

違いが自分を振り回し苦しめてくるもの
ではなくて自分の人生を楽しくて豊かに
してくれるものになった。

もし問題だと思っているものが
問題ではなかったとしたら

問題解決のために費やしている
労力やお金や時間をどこに
費やしていくだろう。

違いはただの違いとして放っておいて
労力やお金や時間を本当に
費やすべきところに費やしていって

当たり前のようにうまくいって
幸せになっていこう。