ずっと"良い"と思って
選び続けていたものは

本当は義理や損得に縛られたり
他人の意見に影響されたりすることで
"良いことにしている"だけだった。

本当は自分に合っているとは思っていないし
むしろ違和感を感じている。

でもその違和感を無視して
心の感覚を停止させて

頭の中で無理矢理

"これは信頼している人に勧められた
ものだから良いものに決まってる"

"もの凄いお金も時間もかけてきたものだから
役に立つ時がくるよ"

"あれだけ沢山の人達が実際に良いと言って
いるのだから良いものに決まってる"

なんて考えて選び続けていた。

"良い"と思い込んでいる時って
疑うということをしないから

自分に合っていないとか自分には必要ない
ということに中々気づくことができない。

それに自分に合っていないものを
選び続けたからってすぐに困ったことが
起こるというわけでもないから

自分に合っていなかったり自分には
必要ないものを"良い"と思い込みながら
ズルズルと選び続けるなんてことに
なってしまっていた。

小さな選択でも積み重なれば
大きな歪みとなって現れてくる。

謎の体調不良とか
気持ちが常に落ち込むとか

全く関係ないような沢山の小さな選択が
そんな状態を作り出していたりも
するものだ。

心と身体が拒否している食べ物を

"これは信頼している人に勧められた
ものだから美味しいに決まってる"

"もの凄いお金も時間もかけて手に入れた
ものだから美味しいに決まってる"

"あれだけ沢山の人達が実際に良いと言って
いるのだから美味しいに決まってる"

そう言って自分に無理矢理食べさせて
いるようなものなのだから

そりゃ心にも身体にも
不調が現れてくるよ。

頭では明らかに"良い"と思い込んでいても
心はちっとも反応していないどころか
重くなっていると思えるような何か。

そういうものって案外無視できない。


違和感とか心の感覚とか、
そんな曖昧で分かりにくいものには
何の価値も見出していなかった。

分かりやすくはっきりと賢い言葉を
述べてくれる思考の声の方が断然
価値があるだろうと思っていた。

でも思考が言っていることが
価値あることなら

もうとっくに人生は豊かで幸せなものに
なっているはずだよね。

違和感が教えてくれた
いらないものを捨てていった時に

ずっと価値なんてないと思って無視して
きたものが本当はどれだけ価値あるもの
だったのかということを知った。

思考の声は数えきれないほどの
何かや誰かの声。

違和感とか心の感覚は決して
嘘をつかない自分だけのもの。


別に今"良い"ということにして
選び続けている何かを捨てなくても
困ったことは起きないかもしれないけれど

どうせなら心も身体も軽い状態で
楽しく幸せに生きていきたいから

面倒くさいとか勇気がいるなと
思うこともあるけれど

いらないと分かったものは
思い切って捨てていこうと思う。

そしていらないものに足止めされる
ことで向かえなかった場所に向かって
いこうと思う。