何かを好きになる時
それを好きである
明確な理由というか

いかにも他人を納得させることが
できそうなカッコいい理由が
なければならないと思っていた。

だからこそ

"何となく心が満たされるから"
"何となく心が和む感じがするから"
"何となく楽しい気持ちになるから"

といった曖昧な理由しか述べることが
できないものは私にとっての好きでは
ないのだと思い込んでいた。

特に自分の好きなもの・好きなことに関して
それを好きである明確な理由を
述べているの人達の話を聞いていると

益々その思い込みが
増していった。

でも私にとっての本当の好きは曖昧な
理由しか述べられないものの中にあったから

自分の好きが分からないとか見つからない
なんてことになっていた。

それで仕方なく無理矢理にでも明確な理由を
述べることのできる何かを見つけ出して

それを自分にとっての
好きなもの・好きなこと
として設定していた。

でも私が述べていた理由は
全部嘘だったわけで

私が自分にとっての好きなもの・好きなこと
として設定していた何かは自分にとっての
本当の好きなもの・好きなことでは
なかったわけだから

好きなものを手に入れて好きなことを
しているはずなのに違和感や苦しみを感じる
なんてことになっていた。

でも本当は何かを好きになるのに
明確な理由なんて述べられなくても
いいわけで

何なら別に何かを好きになるのに
理由なんて必要ない。


"何かを好きになるには
明確な理由がなければならない"
という思い込みから解放されたら

入り口のハードルが下がって
自分にとっての好きが案外近くに
沢山あることに気づいた。

でもそれらを選び続けていったら
やがては意図なんてしなくても
結局はそれらを好きである明確な理由が
分かるようになってきたりもするんだよね。

だからはじめから明確な理由なんて
述べられなくてもいいのだし

明確な理由なんて
分からなくてもいい。

理由っていくらでも嘘のものを作ったり
後付けしたりすることができるもの。

だからこそ理由なんて
本当に当てにならないし

理由に囚われていたら
自分の好きを見逃してしまう
なんてことにもなりかねない。

何かを好きになる理由なんて

"ただ何となく"

それだけで十分だ。

だからこそいかにも他人を説得できるような
特別な理由なんて述べられなくても

遠慮なく自分の本当の好きを
選んでいこう。