初めて同情された時
心が満たされたような気持ちになった。

心が満たされることなんて全くないような
辛くて苦しい毎日を過ごしていた私にとって

特別な才能や能力がないような私にもできて
心を満たしてくれる同情集めは

偶然見つけた
宝物のようなものだった。

だからこそ私は一気に同情集めの沼に
ハマっていった。


同情集めは個性も才能も人脈も
何もないような存在として生きてい私が
やっと見つけた幸せになる方法だったのだ。


だから同情集めのためなら何でもやった。



ただ同情された直後は心が満たされた
ような気持ちになったのだけれど

なぜか少し時間が経つとまた孤独感や
欠乏感に襲われた。

それを自分自身に更なる苦労を強いて
同情集めをすることで埋めようと
することの繰り返し。

そんなある時、どれだけ同情を集めても
心が満たされていないということに
気づいた。



ほんの一瞬の満足感のようなものを
得るためにその他の全ての時間を
苦労に費やすなんていう

バカらしくておかしなことを
している自分に気づいて
同情集めをやめることにした。



すると同じことをするにしても
今までみたいな苦労をせずとも
うまくいくようになって

私の不幸ではなくて
私自身を見てくれる人に
出会えるようにもなって

いつの間にか孤独感や欠乏感が
なくなっていた。


今思えば辛くて苦しいだけの毎日を
過ごしていた時

私は可哀想な存在として生きる自分に
どこか酔いしれていた。

"どうせ私は違うから"
なんて言って幸せそうに生きる人達を
斜めから見て

人の輪に加わろうとしない孤独な自分にも
どこか酔いしれていた。

孤独も不幸も全部自分が作り出して
いただけだった。

確かに同情されてもおかしくないような
環境で育ったけれど

そのことを同情集めの道具にしてしまったら
本当に不幸のサイクルにハマっていって
しまうんだよな。

自分が幸せかどうかってことと
育った環境や親や才能や能力や
容姿や持ち物は関係なかったよ。

育った環境や親や才能や能力や
容姿や持ち物を同情集めの道具に
することなんてもうやめた。

私はもう素直になって遠慮なく
幸せになっていくよ。