【お知らせ】この記事は『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ〈ワルプルギスの廻天〉』の感想記事です。

公式からのアナウンス通り、9月12日まではSNSやネット上での具体的な旧Twitterで直接的なネタバレが禁止されています。

映画本編の具体的な展開、結末、核心に深く踏み込む感想(ネタバレありパート)は、この記事の後半に配置しています。
なお、今回の本編ネタバレ感想には、「新房監督の作品」についてのネタバレも含まれます。※これはただの自分の趣味

読者の方が投稿内容を「見る・見ない」を自分で選択できるように、ここから先はワンクッションを挟みます。




まだ映画を観ていない方、パンフレットの記述や監督作に関する言及も含めてネタバレを踏みたくない方は、ここから先はスクロールせずにページを閉じるか、映画鑑賞後にまたお越しください!

「もう映画もパンフもチェック済!」「ネタバレOK!」という方のみ、以下の駄文へスクロールしてお進みください。ってか間違ってたらコメントでください。

くどいようですが、投稿内容は「任意で」読んでください。
あえて公式の画像を引用します。




ここでいうところのブログにおいて「任意で見る/見ないを選択することができる」という解釈で感想を書きます。


※1 ネタバレを含みます

Amebaでは伏せる機能がないため、まずここの線引きで公式で言うところの「任意で見れる」ということにします。

※2 ほとんど記憶をたよりに書いているので情報が間違っている可能性があります。まだ一回しか観ていません。
※3もう一度ワンクッション置きます。「任意で見る」としても文章の解釈が難しい。ですが、まだ観てない人は、まず映画館へ。



・はじめに





劇場へ行ってください。



更にワンクッションも兼ねて、まずマニエリズムについて書いておきます。本作『ワルプルギスの廻天』の画面を埋め尽くす記号や、因果関係を極限までこねくり回した構造を読み解く補助線として、美術史における「マニエリズム」という現象が挙げられます。マニエリスムとは、16世紀のイタリアを中心に流行した美術様式。レオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロらによって、ルネサンスの完璧とも言える調和(シンプルで写実的な美)が一度完成された後、後世の画家たちは
「大衆ウケするものを普通に描いてもなぁ…」
みたいな壁にぶつかりました。
(偉大な芸術家と今のクリエイターを同一視するの?)
と思うかもしれませんが、むしろ個人的な考えとしては、芸術をつくる土壌としては、今のほうがずっと創作は自由で、天才の飽和状態にあるような気がするのです。クラシックが高尚で完璧か、というとそれは単なる思考停止の押し付けだと思う。ただ、それゆえにマニエリスムは多分今後も直面し続ける課題で。マンネリの由来がマンネリズム(Mannerism)みたいですから、「マンネリ感」って言ったほうが伝わりやすいかもですね。ループものにしても、ADVだとお約束の手法でしたが、まどマギテレビ版放送時ぐらいから10年でループ系はマンネリ化したような気はしますから。
当時(16世紀)の人たちも、ぶっちゃけネタ切れみたいな感じで、あえて型を崩し、人体を不自然に引き伸ばし、複雑なポーズをさせ、インテリにしか解けない暗号(ペダンティズム)をちりばめる「歪みの美学」へと突き進みました。
で、深夜アニメの歴史もこれと同様の循環を辿っています。初期のシンプルなフォーマットは、表現技術の成熟に伴い、1980年代のとんでもないメカ作画や、1990年代以降の難解なメタフィクションへと複雑化していきました。旧エヴァとかは最たるものですね。
2011年の初代『魔法少女まどか☆マギカ』は、魔法少女というシンプルなジャンルを前衛的に解体・再構築した金字塔でしたが、13年を経て公開された本作『ワルプルギスの廻天』は、その解体行為や過剰な演出そのものが自己目的化した、まさに「マニエリスムの極致」とも言える様相を呈しています。かつて新房監督が黎明期に関わった『リリカルなのは』シリーズが、設定の盛りすぎ(=マニエリスムの罠)によって一度失速した歴史を踏まえると、本作の過剰さはその弊害を再演しているようにも見えます。物語としての整合性よりクリエイターの感覚を重視して形式が肥大化していく現象は、ジャンルやコンテンツの円熟期に現れる特有の課題と言えます。後述しますが、『なのはForce 』は膨大な設定もビジュアルもフィギュアも作られていながら、企画が倒れてしまいましたから。


・ 『ワルプルギスの廻天』における映像の独自性とプロットの課題、そして「原点回帰」への結末

『[劇場版 魔法少女まどか☆マギカ〈ワルプルギスの廻天〉]が提示した過剰な情報量は、観客の間で評価が大きく分かれる要因となっています。本作の最大の特徴は、映像表現の圧倒的な独自性と、それに伴うストーリーテリングの歪さという二面性を抱えている点にあります。
このバランスがもたらす映像的な興奮と、同時に生じる「物語としての物足りなさ」、そしてその先にある本作のテーマについてあれこれ書きたいかなと。

1. 頓挫、構成

劇場パンフレットにおいて、脚本の虚淵玄氏はインタビュー内で「企画倒れもある」という話を業界単位の話で明かしています。13年という歳月の裏で、シリーズの引き伸ばしに伴う設定の肥大化や物語の破綻による自滅の危機を、制作陣自身が強く自覚し、葛藤していたことが伺えます。
しかし、幾度もの頓挫と推敲を経て完成したはずの本作のプロットは、結果として「物語としての面白さ」を著しく損なっているという批判はあるような。他の人の感想は見てないですけど、だいたい察しはつく。あとは、とある配信者の雑談でその辺りの反応だけ聞きました。その要因は、脚本家ではない劇団イヌカレーのビジュアル表現や世界観に、物語の根幹であるプロットが引きずられすぎている点にあります。
本来、劇団イヌカレーの役割は美術設計や映像演出の範疇であり、ストーリーの骨組みであるプロットそのものを動かす立場ではないはずです。マギアレコードの時から感じていましたが。そのため、彼らのアヴァンギャルドな世界観や過剰なギミックを成立させること自体が目的化し、そのためにキャラクターや物語が都合よく駆動されているかのような逆転現象が起きています。ここが、どうにももどかしい。
本来の脚本家である虚淵玄氏の強みは、冷徹な因果論とソリッドなストーリー構成にあるはずですが、今作ではそのロジックが演出側の要求によって希釈されています。マギアレコードの頃からそうでしたが、あくまでそれは虚淵玄先生を優先させてほしかった。もしくはまどマギP(ポータブル)みたいな監修。劇団イヌカレーのアイディアを活かすためにプロットを虚淵氏に持ち込む必要性は必ずしもなかったのではないか、という疑問が生じるのはこのためです。

2. 新房監督の過去作を想起させる…?

一方で、プロットの問題点や物語としての消化不良感を認めつつも、なお本作を無視できない怪作たらしめているのが、際立った「映像の独自性」です。
今作では、かつて新房昭之監督が手掛けた『魔法少女リリカルなのは』に登場するユーノ・スクライアの「無限書庫」をちょっと連想させる空間など、過去の様々な魔法少女表現や自社作品のオマージュとも取れるビジュアルが展開されます。昔のインタビューで新房監督が語ってた気がしますが、リボンなんかの描写も確かなのはセルフオマージュだったはず。(監督の発言ではないかも。その辺は記憶が曖昧)
現実の物理法則やパースペクティブを意図的に無視した空間配置、そしてそこに現れる「魔女の名前」や象徴的な記号の数々は、現在の効率化されたデジタルアニメーションの枠組みからは決して生まれない、狂気的なまでのオリジナリティを保持しています。ストーリーテラーとしてのロジックを排し、映像の快楽とアヴァンギャルドな美学に極振りされたその画面には、他ジャンルの追随を許さない圧倒的な強度があります。

・「名前を呼んで」への回帰

物語としては、正直何とも言えない余韻で、映像としては凄まじい。この極端な二面性を持つ本作ですが、では最終的にこの映画は何を語ろうとしたのでしょうか。その結論を読み解く鍵は、やはり新房監督の原点である『リリカルなのは』にあるのかも。本作では、かつての無限書庫を思わせる空間が配置されています。名塚底根が魔女、魔法少女を記録した空間ならなんかもう「無限書庫」って認識の方がなんか個人的にしっくりくる。パンフレットによると「水晶書庫」らしいですが…



別シリーズで、関係ありませんが。水晶書庫の設定はそれを思わせるような。
これらは本作のテーマそのものを示唆しているように思えます。実際、あの書庫の存在あったら魔女の膨大な記録ありそうですしね。あそこでもう因果関係の全てが決められているのかもしれません。
そして、その状態の世界の中で、最後に魔法少女たちが希求したもの。それは、かつて『リリカルなのは』の主題歌『innocent starter』で歌われ、作品の根底に流れていた「名前を呼んで」という祈りへの回帰ではないでしょうか。というか、エンディングがあの曲だと個人的にしっくりくる。いずれにせよ「新房監督の魔法少女」なんですから。まどかエクセドラの歌詞も
「名前を呼んで」からはじまりますから。




この歌詞が何故かしっくりくる。アニソンの歴史としても、これはひとつのスタートライン、時代の区切りの一つな気はしますから。言わずもがな「彼方」が主題歌ですけどね。あくまで個人的な解釈です。

まどマギの話に戻します。神格化され、悪魔化され、記号の迷宮に迷い込んだ少女たちが、システムや概念としてではなく、ただ一つの固有の存在として「名前を呼ばれること」で繋がり合おうとする──。劇団イヌカレーの過剰な演出による暴走の果てに、本作が最終的に着地したテーマは、皮肉にも新房監督のキャリアの黎明期にあった、最もシンプルでストレートな「魔法少女の原点」への回帰だったのかも。最初にマニエリスムについて言及したのもこのためです。芸術の歴史も繰り返す。というか、似た現象が起きるのかも。

とはいえ、さすがに芸術論で誤魔化すのもよくないので、きちんと描写とも向き合いたいと思います。ここからは、本作の内容に触れていきます。




・ワルプルギスの夜、トカゲ、マルグリート(雛菊、あるいは雛)

「まどか☆マギカ〈ワルプルギスの廻天〉』。本作の冒頭に登場する不気味な都市伝説「トカゲさん電話」と、ついに明かされたワルプルギスの夜の正体「ワス」と本来の救済者「マルグリート」の過去には、古くから伝わるトカゲの伝承や、花の名前に隠された言葉の歴史を通じた深い繋がりが存在します。

1. 「トカゲさん電話」が意味する悪魔ほむらの歪んだ祈り
古い伝承や美術の世界において、トカゲは複数の重要な意味を持つ特別な生き物です。これが「悪魔ほむら」の構築したシステム(トカゲさん電話)の不気味な皮肉として機能しています。

・天上の光を求める「崇拝者」
古代の伝承では、トカゲは「老いて目が眩むと、東を向いて太陽の光を見つめることで視力を回復する」とされています。まどマギにおいて、ほむらにとっての太陽(絶対的な光)とは「鹿目まどか」そのものです。光と繋がりたいというほむらの執念が、電話という通信ツールとして具現化したと考えられます。

・「再生」と「変化」のシステム
トカゲは尾の再生能力や脱皮する姿から「復活」や「生まれ変わり」の象徴です。「一般の少女に力を貸し、願いを叶える代わりに呪いと戦わせる」というトカゲさん電話のシステムは、古い自分を脱ぎ捨てて新たな願いを得るという、トカゲの性質そのもの?

・人間を誘惑する「悪魔の使い」
古典的な絵画において、トカゲは人間をそそのかす悪魔の身代わりとして描かれることがあります。かつてキュゥべえが少女たちを誘惑したように、今度は「悪魔」となったほむらがトカゲの姿を借りて少女たちを誘惑し、自らのシステムに巻き込んでいるのかも。

2. 中世の修道院が意味するもの――「まどか」とほぼ同じ救済システム?

劇中で描かれたワルプルギスの夜(ワス)の回想。あの中世の修道院の描写は、まどマギの世界における「もう一つの救済の歴史」を寓話的に描いています。
当時、信仰のために身を捧げていた聖職者たちは、当時の「魔法少女」達(ただこの時はまだインキュベーターは命名してない)でした。普通の女の子だったマルグリートは、傷つき苦しむ彼女たちを助けたいという純粋な願いからキュゥべえと契約し、【救いの魔法】を手に入れます。
※この辺りの詳細は不明
彼女の魔法は、単に怪我を治すだけでなく、少女たちのソウルジェムに溜まった「呪い(絶望)」そのものを自分の身に吸い上げるものでした。これは、のちに鹿目まどかが「円環の理」として構築した「全ての魔法少女の呪いを自分が代わりに引き受ける」という救済システムと、本質的にほぼ同じものです。間違ってるかも。

3. 「雛菊(マルグリート)」という名に隠された圧倒的な無力さ

システムや願いはまどかと「ほぼ同じ」でありながら、なぜ彼女は「ワルプルギスの夜(魔女)」というバケモノになってしまったのでしょうか。その理由は、彼女の本名である「マルグリート(Marguerite)」という言葉の歴史に隠されています。
日本では「マーガレット」、「マルグリット」は、もともと野原にひっそりと自生する野生の「ヒナギク(雛菊)」を指す言葉でした。
中世ヨーロッパという時代背景を考えると、彼女は華やかなお花ではなく、どこにでもある素朴な「雛菊」だったのです。この「雛(小さく未熟なもの)」というニュアンスこそが、彼女の悲劇のはじまり。
ただ、それは因果の量が足りなかった「雛」でした。エントロピーを覆すほどのものがなかった。
まどかは何度も時間を繰り返したことで「世界を改変できるほどの巨大な因果(パワー)」を既に宿し、概念(神のような存在)になることができました。しかし、マルグリートは中世の片田舎に咲いた、名もなき小さな「雛菊」に過ぎませんでした。本質的な願いはまどかと似ていても、彼女はあまりにも小さく無力な「雛」だったため、世界の呪いの重さに耐えかねて自滅してしまったのです。ワス(ワルプルギスの夜)が暁美ほむらとよく似ていたのは…確か劇中で説明していた気がしますが、いずれにせよ似た運命を辿っていたからのように思います。

・ヒナギクの花言葉が示す「純潔」

ヒナギクの代表的な花言葉は「無邪気」「純潔」らしいです。彼女は高度な世界の仕組みなど知らず、ただ「目の前の人を助けたい」という無邪気なまでの純粋な善意だけで呪いを引き受けました。まどかと同じ深い愛を抱きながらも、許容量を超えて魔女へと変貌していった彼女の運命を残酷に暗示しています。
絶対的な力を持ち得なかった、歴史の底に埋もれて踏みにじられた無力な野の花(マルグリート)。だからこそ、ほむらに似た名無し、まどかの先輩、ワス、ワルプルギスの夜は、自分と同じ理想を完璧に成し遂げた「まどか(円環の理)」に抱きしめられ、救われることをずっと求めて彷徨っていたのかもしれません。

あるいは、ワス(ワルプルギス)はもっと普通の女の子としての人生も送ってみたかったのかも。だから、まどかすると「先輩」。そして円環の理マルグリート

・お気に入りのシーン

小難しい話が続いたので、ここからは本音。

ただ、シンプルに
「よく言ってくれた!!」
ってテンションあがったシーンはありました。

さやかちゃんが主人公だった感じはある。暁美ほむらに対して

「鹿目まどかのことを『円環の理』って呼ぶな」

という痛切な叫び。
あそこは本当に凄い良かった。
「ワルプルギスの夜」も普通の女の子だし、「オクタヴィア」も普通のさやかちゃん。「ゾンビになった」と嘆いていたさやかちゃんが、「人間のさやかちゃん」として怒ったのが良い…!

そういえば、盲点でしたが公式サイトやゲーム関連で「魔女図鑑」というのはありましたが、「じゃあ、そもそも魔女図鑑って誰が編纂してるの?」っていう疑問はありませんでしたね。そこをついてくるのは面白かった。

・鹿目まどか
Kriemhild Gretchen(クリームヒルト・グレートヒェン)
救済の魔女

・暁美ほむら
Homulilly(ホムリリィ)
背徳の魔女(PSP版)
※劇場版では「くるみ割りの魔女」

・美樹さやか
Oktavia von Seckendorff(オクタヴィア・フォン・ゼッケンドルフ)
人魚の魔女

・巴マミ
Candeloro(キャンデロロ)
おめかしの魔女

・佐倉杏子
Ophelia(オフィーリア)
武旦の魔女

すまねぇロシア語はさっぱりなんだ。みたいな感じで色々あります。
例えば、まどかだと、ドイツの叙事詩『ニーベルンゲンの歌』の復讐のヒロイン「クリームヒルト」と、ゲーテの『ファウスト』のヒロイン「グレートヒェン」が由来らしいです。加えて円環の理そのもの。

でも、まどかは、まどか。

言わずもがなタイトル通り魔法少女のまどかです。当たり前ですが、まどかの友達は誰も彼女のことを「クリームヒルト」だなんて呼ばない。当たり前のことですが、友達が友達のことを名前で呼ぶ。名塚底根で魔女図鑑がありましたが、そもそもここで概念的な「情報」=「名前」としてあった訳ですね。並行世界の魔女名もすべて網羅してるんだと思います。

でも、それはさやかちゃんが悩んだように、魔女名は本当の名前じゃない。オクタヴィアだなんて大仰な名前じゃない普通の女の子です。

だから、エンディングの「彼方」の歌詞で

「いのちを抱えて
私はここにいるよ
貴方を呼んでいるよ」

という歌詞が胸に響くわけですね。

ラストのインキュベーターの台詞も「無限の図書?興味深い」
みたいな感じだと個人的にはしっくりくる。実際、まどマギ始まる前はインキュベーターをユーノ君枠だと思ってる人たくさんいましたから。でも、シリーズは違ってくるので別名称って印象ですね。余談ですがマギアレコードでなのはさん普通に実装してるので…

でも、名塚底根の根幹をインキュベーターは知らなかった。魔女図鑑も。それなら、インキュベーターが魔女名をつけた訳じゃない。「ウワサ」が独り歩きしていったのが、魔女名っていうことなんですかね。

最後、だからインキュベーターは興味をもつ。

「え、続編あるの?」と思いましたが、たぶんなさそうですね。

公式サイトの魔女図鑑そのものが名塚底根って解釈もできそうです。じゃあ、魔女達はなんだったのか。「本当の名前は?」というのを、インキュベーター的な感情のない目線ではなく、寄り添って呼び掛けることが、この作品のメッセージ性とも受け取れる気がしますね。時代をこえて、その名前と、その子を知ること。それで、救いはあるかもしれないし、ないかもしれない。
セレマみたいに「円環の理のせいでだいなし。役に立ちたかった」みたいに、必ずしも一方的な優しさが救済になるとも限らない。だから、まどかと敵対するセレマは「円環の理」と呼んでたような。なぎさちゃんとは仲良かったですけどね。あのシーンはほほえましい。マミさんもちょっとうかれててかわいい。
遊園地のシーンでまどかが魔女裁判を想起させるようなシーンがありましたが、思い返してみると、はじめからセレマはまどかのことをクリームヒルト、あるいは円環の理として認識していたのかもしれませんね。なぎさは無邪気に投げてた気がするけどその構図も面白い。「楽しければ良い」と言いつつ、「エンタメにはこだわりがある」という…まぁ実際そうなのかもしれない。暁美ほむらは悩みすぎですし

「自分の人生が尊いと思う?」

※エクセドラより


と、ほむらがまどかに言った台詞が、今度はまどかが言った逆転の構図も良かった。悪魔ではなく、ほむらちゃんに向けて。

虚淵玄先生による、なぎさちゃんの深掘りはもう少し欲しかったところですが、それは仕方ない。ないなら想像するしか。

……でも、続編あったらやっぱり観たい。以前の記事で書いた

「名塚底根に興味をもつこと」=「見てみたいという欲がある」

なので、やっぱり何かしらインキュベーターが名塚底根と関わるストーリーは観たい。室外機の回転を目に錯覚させる表現は面白かったですね。ゾクゾクしました。
エックスでのネタバレ解禁日で「続編決定」あったら良いなとは思いますね。その時はきちんとイヌカレーが用意するんじゃなくて、虚淵玄先生の脚本を重視してほしいですが。




(なんでボトムズの話してるんだ?)って一番自分が疑問に思ってる。ターンピックでなんか深読みしてしまった。1k…?
旧Twitter。正直、この時に諦めてた。ボトムズはたまたま観た作品だったので、なんとなく察したのですが。何も知らなかったらさすがに怒ってたと思う。「なんで脚本家がこのタイミングで同人ゲーム作ってるの?同人で関係ない本作ってるのって?」って。でも、これも虚淵玄先生の原点回帰なのかもですね。あと、ヴァルヴァロ(ガンダム)がお好きみたいで……うん、まぁいいや。男の子はヴァルヴァロが好き。多分。マギアレコード前だと結構まどマギ関連の話したりしてたんですけどね。多分まどかのソシャゲ関連は何も言ってなかった気がします。FGOなんかだと「2部3章書きました」…と、膨大でかつ良質なシナリオ書いてくれたのですが。インタビューでマギレコに対して好意的な発言はしていましたが、Twitter時からずっと見ていた自分としては若干モヤっとする。マギアレコードも1部は面白かっただけに。
かなりまわりくどいですが、これは自分なりのファンレターです。『楽園追放』新作もありますしね。
「彼方」の歌詞でいうところの

「この世界を あと一度だけ 信じてみようかな」みたいな気分。

あるいは「俺の方がうまい脚本を作れる」って熱意のある人が、新しい作品をつくるきっかけになっても良いんじゃないかと。どんどん新しい世代の脚本家は出てきてほしい…!

・おわりに
まぁ、ストーリー面はまどマギはテレビ版で終わってた。テレビ版で完成度が高すぎた。
シンプルな言い方をすると、それにつきてしまう。
またPSP版のまどマギ(ADV)だと暁美ほむらの描写が凄まじく、分岐もかなり枝分かれして、なおかつ虚淵玄先生が慣習して筋の通ったifルートが大量にありました。「魔女図鑑」という概念も多分その辺りに関わっています。アニメ化されていませんが、マミさんや杏子の魔女化ルートもあるので、気になった人がいたらオススメです。

劇場版は、まどマギの美術館に行った感覚です。良くも悪くも余韻が今でも続いてる。
じゃあ、「?」となる美術がどうなのかっていう話は、最初に話したマルセリスムの話に戻ります。
ただ、もしかしたら30年経ったらまた違う見方になるかもしれない。そもそも、「ああ、この時ってスマホがまだあったんだ」とか「生成AIが蔓延っていた時期だから、こんな実験的な映像にしたのかな?」とか、身の回りにあるものは常に変わってきますから、ずっと先の時代を見据えて布石を置いた感じもします。

万物流転。FictionJunction(梶浦由記)的には「荒野流転」…あれも奇しくも「彼方へ」という歌詞で終わりますね。本作の「彼方」というエンディングは梶浦先生にとっても原点回帰なのかも?…足跡でほむらとまどかが道を寄り添ったりする描写がエモかったですね。「彼方」はもう一回ちゃんと流れで劇場で聴きたい。

「この世界を ただ信じてみようかな
風の中を 歩いていける」

「私はここにいるよ 貴方を呼んでいるよ
大事なものばかり増えた 儚い世界で」

やっぱり「彼方」の歌詞を考えると、
本当の「名前を呼んで」=「あなたを愛する」
というのが主題の一つなのかも。

ある意味、まどマギ(魔法少女)の卒業式みたいなものかもしれませんね。理屈じゃなく、名前を呼び合う感じ。

ともあれ、出逢えて良かった作品でした!



長い。本当に公開するのか…?

という感覚が未だにある。


ずいぶん年月が経ちすぎて、流石に公開するタイミング誤ってるんじゃないかとは思います。流石に当時ほどの熱量も自分もないですし、まどマギ以降で沢山作られたダークファンタジー寄りの魔法少女モノがあまり好きではない……というか、お腹いっぱいになってしまった感はありますね。とはいえ、思い入れのある作品なので、ちょっとやっぱり展開の続きは気になるわけです。いよいよ、今日公開ですね。公開前に考察……というか、ほとんど妄想を垂れ流したいと思います。間違ってたらそれはそれで面白いと思いますから。 


 ・「名塚底根」の正体とインキュベーターの最終実験、そして黒猫エイミーへの回帰 


 新作映画『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ〈ワルプルギスの廻天〉』。公開された特報映像やあらすじには、私たちの想像を超える不穏なキーワードやカットが散りばめられています。今回は、それらの点と点を線で結び、本作の裏で起きているかもしれない「神と悪魔、そして宇宙のシステムの最終決戦」について、作品独自のロジックから深掘りした仮説をまとめました。この考察を進めていくと、これまでの『まどマギ』の歴史とシステム、そして初期からのビジュアルを回収する、ある切ない結末へと繋がっていきます。たぶん。


 1. 伏線の起点:テレビ版ラストの「監視対象」とインキュベーターの「知的好奇心」


まず、物語の起点として考えたいのがテレビ版のラストです。世界が再編された後、暁美ほむらは唯一「魔女がいた世界」の記憶を持ち、背中に黒い羽を生やして魔獣と戦い続けていました。そしてその傍らには、常にインキュベーター(キュゥべえ)の姿がありました。公式設定において、インキュベーターには「感情がない」とされています。しかし、彼らはテレビ版の時点で「感情は僕たちの文明では極めて稀な精神疾患」と語っていました。つまり、機能として持てないのではなく、社会の効率化のために遺伝子レベルで去勢(オフに)しているだけ、とも捉えられます。このあたりは想像でしかありませんが。ほむらという「宇宙の理を超えた異質な存在」と長い時間一緒に過ごし、彼女の異様な執念や因果量を観測し続けたことで、インキュベーターのシステム内部に「知的好奇心」や「人間にたいする恐怖・驚き」という名のウイルス(=精神疾患のスイッチ)が、バグとしてじわじわと芽生えていったのではないでしょうか。彼らはすでにこの時点で、同族のネットワーク(群)から「特異体質(バグ個体)」として監視対象になっていた可能性が浮上してきます。要するに、インキュベーター自身の魔法少女化。


 2. 実験室「名塚底根」の正体:蓄積された『穢れの根底』とインキュベーター産の魔法少女 


 特報第2弾で公開された、最も不気味な新キーワード「名塚底根(なづかそこつね)」。公式からは「すべての魔女の始まりの場所」と説明されています。そして映像の中で一瞬映し出される、魔力で拘束されたりしている、まるで人体実験のようなおぞましいカット。この2つの要素から導き出されるのが、「インキュベーターが、感情(恐怖)を持ってしまった同族や魔獣の因子を使い、『人造人間(魔法少女)』を作り出す最終実験を行っているのではないか」という仮説です。人造というか、文字通りインキュベーター(孵卵器)から製造された魔法少女のボディ(+精神疾患型インキュベーター)


まず、インキュベーターの文明は高度に完成されており、かつて地球の人類に知性を分け与え、卑弥呼やジャンヌ・ダルクといった歴史上の偉大なる少女たちを魔法少女にして文明をコントロールしてきました。彼らの技術力があれば、人間の身体(肉体)をデータ化し、バイオテクノロジーか何かから作り出すことも不可能ではないはずです。現に彼らは『叛逆の物語』で、ほむらのソウルジェムを遮断フィールドで囲い、徹底的にその構造を研究していました。 テレビシリーズでソウルジェムそのものを「友達を放り投げる」という表現をしていたり、価値観が違うのではなく、もしかしたら本当に「身体をつくることは可能」であるから、会話がずれていたのかもしれませんね。実際にインキュベーター自体は撃たれてもすぐに次のボディが支給(?)されていますから。PVの「何が本当?」というのはそこからの台詞かも。


話を戻すと、「名塚底根」とはインキュベーターが数千年間、地球をハッキングし、歴代の魔法少女たちの絶望や穢れ(ソウルジェムのゴミ)をプールしてきた、いわば「穢れの根底(エネルギーの源泉)」のような場所ではないでしょうか。彼らはほむらの支配(悪魔の世界)から脱するため、この地底を開放し、自前の肉体(人造魔法少女)に、底から湧き上がる絶望の泥を流し込んで兵器を鋳造しているのかもしれません。

これまでの「少女が勝手に絶望するのを待つ(放牧型)」スタイルから、自ら肉体を作りシステムとして管理する「工場生産型」への最悪の進化。特報に映る脊髄のようなビジュアルは、まさにその人造人間の神経系を構築した結果とも考えられます。 

PVの「大きな陰謀」みたいな安直な台詞は本当にそのままの意味かも。


3. 新キャラクターの異常性と「暁美ほむらを許さない」理由あらすじで公開された新魔法少女、「紫丁香(し ちょうか)」と「セルマ・テレーゼ」。


 彼女たちには明確な2つの異常性があります。 


 1. 瞳孔が白く抜けている不気味な瞳(インキュベーターの無機質さに酷似している?) 


 2. 「ソウルジェムを持たない少女」であるという公式設定


彼女たちの正体こそ、名塚底根でインキュベーターによって「絶望の泥」から無理やり形を与えられた。

つまり


魔法少女のはじまり↔️インキュベーター(精神疾患)の端末の成れの果て


ではないかという因果関係。魂を抜くプロセスを経ていないためソウルジェムを持たず、しかし世界の歪み(魔獣の力など)を移植されているため戦うことができる、という仕掛けです。そして、人造人間にされたインキュベーター達は、皮肉にも魔法少女になって初めて人間の「痛み」や「恐怖」を知ることになるのかもしれません。彼女たちが「暁美ほむらを許さない」と怒りを燃やしているのは、「暁美ほむらという存在が宇宙を歪めたせいで、自分たちはインキュベーターの実験台にされ、痛みを伴うバケモノの肉体に縛り付けられた」という、地獄のような因縁があるから、と考えると説明がつくような。


・暁美ほむらの「二分化」:インキュベーターの対消滅トラップ


さて、特報で描かれる「2人の暁美ほむら」の対峙、そして制服の襟の色が異なるほむら。どうしたほむほむ。これもインキュベーターの実験の成果だと仮定すると、なかなかに恐ろしい絵面が見えてきますね。彼らはほむらのソウルジェムを研究していたデータを元に、「悪魔化する前の、かつての魔法少女だった頃の暁美ほむら」の身体と記憶を完璧に複製(レプリカを作製)したのではないでしょうか。悪魔ほむらという最強の存在を無力化するために、あえて「レプリカの自分」をぶつける。自分自身と戦わせることで精神を崩壊させるか、あるいは因果をバグらせて力を相殺・無力化(対消滅)させようとする、インキュベーターらしい冷酷な計算が透けて見えます。世界が二分されているように描写されているのも、このオリジナルとレプリカの因果が衝突している歪みの影響かもしれませんね。


あとは、この二人、名前も声優も公開されているのに何故か上記のPVに名前がのっていません。


だから


「暁美ほむら」(レプリカ)「紫丁香」「セルマ・テレーゼ」=「インキュベーター産の魔法少女」=「キュゥべえ」(精神疾患型)


なので、インキュベーターに内包されるからクレジットに載っていないんじゃないかと…


恐らく、インキュベーターの声帯が一つだけという訳ではありませんから。


 5. タイトルの回収:「ワルプルギスの夜」が廻天(復活)する理由 


では、なぜ今さら「ワルプルギスの夜」なのか?設定上、ワルプルギスの夜は一人の魔女ではなく「無数の魔法少女の絶望の集合体」です。すなわち、名塚底根(地底の底)に溜まっていた呪いの泥そのものという解釈ができます。インキュベーターがほむらを倒すために底を掘り返し、インキュベーター産の魔法少女の実験を始めた結果、かつてまどか(円環の理)によって概念ごと消し去られたはずの「ワルプルギスの夜(無数の絶望)」の残滓までが同時に目覚めてしまい、制御不能の暴走(逆転・再誕)を起こしてしまった。これこそが、タイトルの『ワルプルギスの廻天』の真意ではないでしょうか。

 円環の理の一部(記憶を保持した唯一の防衛線)である美樹さやかが、特報で顔中包帯まみれの満身創痍になっていたのは、この並行世界で次々と溢れ出す「ワルプルギスの化身(インキュベーター産の魔法少女たち)」や世界の歪みとたった一人で戦い続け、驚異的な自己治癒魔法すら追いつかないほど消耗しているから、と考えると辻褄が合う…かも?


6. 「黒猫のエイミー」


インキュベーターが実験を弄び、世界を二分し、過去の絶望(ワルプルギス)が吹き荒れる地獄のような戦いの果てに、悪魔ほむらは一体どんな結末を選ぶのでしょうか。

彼女が最後に至る「救い」としての最後の願い。それは、もしかしたら「ただの黒猫のエイミーになること」なのかもしれませんね。

「黒猫のエイミー」とは、テレビ版のOP映像『コネクト』の冒頭で、まどかに優しく抱かれているあの黒猫です。コミライズ版や初期設定から存在する、『まどマギ』という物語の原点にして最大の伏線でした。

ほむらはまどかを救うために、魔法少女になり、時間を遡り、ついには悪魔にまでなって肥大化し続けました。その果てに、すべての呪いや概念の戦いから解放されるために選ぶのが、かつてまどかが愛し、そして死んでしまった(まどかが魔法少女になるきっかけになったとも言われる)ただの小さな命に還ること。


もしこれが真実なら、私たちは2011年のテレビアニメのOPから、ずっとこの物語の結末(まどかの腕に抱かれるほむらの成れの果て)を見せられていたという、構図は浮かび上がりますね。

悪魔という宇宙のバグがいなくなった世界で、再び「円環の理」としての全能性を取り戻したまどか。彼女は世界の悲しみを救う中で、1匹の傷ついた黒猫を優しく抱き上げます。まどかにはそれが「暁美ほむら」だという明確な記憶はないかもしれない。けれど、その黒猫の瞳に、なぜか愛おしい面影を見て、そっと涙を流す――みたいな幕のおろしかた。

無機質なインキュベーターのシステム、そして泥沼の地獄のような戦いを経て、最後に残るのが「1人の優しい神様(まどか)」と「彼女に抱かれる1匹の黒猫(ほむら)」という、原点への回帰。これこそが、『ワルプルギスの廻天』が描くかもしれない、最も美しく容赦のない、グランドフィナーレなのではないでしょうか。


あくまで、想像ですけどね。



P.S.

雑記。メメタァ


・二つの「SG」


『まどマギ』の「ソウルジェム(SG)」は魂の結晶であり、穢れが溜まると魔女化します。一方、『Fate/EXTRA CCC』に登場する「シークレットガーデン(SG)」も、少女(マスター)の心の奥底にあるトラウマや歪んだ願いを具現化した不気味な精神世界(空間)です。どちらも「少女のドロドロとした本質・エゴ」を暴くことで駆動するシステムという点で、おぞましいほどの親和性があります。さらに、CCC(+ラストアンコール)のアニメ化を手がけているのは『まどマギ』と同じ「シャフト」で……


いや、これ以上は流石に長くなりすぎですね。最初に「熱量はもうない」と書きましたが、まだもうちょっと書ける。マミさんの過去(銀の魔女)とか、忘却の魔女とか、針の魔女とか……


でも、まぁ長い年月がたってもこうして色々と想像できるっていうのは、それだけで名作の証左なんじゃないかと思いますね。


じっさいに観ての感想は時間があったら書きます。いずれにせよ、公式でネタバレ注意喚起があるので、直接的なことはしばらく書かないと思いますが。



長くなりましたが、それでは!

m(_ _)m




『アイカツ!SS』の二次創作描いてます

それにしても、読み返すとマリーの母視点で新たな発見もあったりして、漫画としても凄いですね…✨