1984年 中国四川省「成都」
友人の残した旅のネガより、時系列に整理してお届けしています
毛沢東像と四川科学技術館
この頃からいたるところに、毛沢東像が林立してゆきます
死後もなお、その政策が否定されずに像が増えて行くのはお国柄・・・
さて四川省=四川料理と言えば
「麻婆豆腐」を思い出す方もいらっしゃるでしょう
中華料理の中では比較的、まっすぐに伝来した料理だと言えます
つまり、ラーメンやカレーやスパゲッティのように
本家とは、まず違うという事の無い味と見た目なのが是ですね
「陳麻婆豆腐」が正式名称ですが
この「陳」を名乗れるのは正式にライセンスを受けた
チェーン店だけです(ググってみてください)
これ、残念ながら隣の「水道、電気、修理部(お客様)窓口?」に人だかりができています
創業は清朝末期、1862年。麻婆豆腐発祥のお店がこれです
四川省成都市が本店で日本の陳麻婆豆腐は世界で唯一、暖簾分けされました。
1862年、陳富春と妻の陳劉氏は四川省成都の北門にある万福橋のそばに
陳興盛飯舗という食堂を開きます。しかし、店主の陳富春は早くに亡くなり、
残された妻の陳劉氏 がお店を切り盛りしていました。
* 陳は夫の姓、劉は結婚前の姓。清朝末期の呼び方で、自分の姓の前に
夫の姓をつけて既婚婦人を呼んでいたなごり。
陳興盛飯舗の多くの客は肉体労働者。彼らは豆腐を持ち込み、
籠の中から一杯の油をすくって、奥さんに豆腐料理を作ってもらっていました。
当時のこの料理は红烧豆腐(ホンシャオドウフ)といいます。
红烧豆腐は香り高く、辛く、熱く、痺れる風味が絶妙だ!と、評判になり、
店の看板料理となっていきます。
陳劉未亡人の作る豆腐料理はは中国全土にとどろき、その味を求めて
多くのお客が訪れます。
陳未亡人の顔にぶつぶつ(麻子)があることから、红烧豆腐は次第に
“麻婆豆腐”と呼ばれるようになりました。
そして、ついに店の名前が“陳麻婆豆腐”となったそうです。
※ニキビ痕のぶつぶつ(麻子)があるおばさん(婆)=麻婆。
創業者夫婦が亡くなってからは娘の魯陳氏の婿である魯希智が跡を継ぐ。
魯陳氏が亡くなって後は、
その子である魯世権が跡を継ぐ。
魯世権が亡くなってからは、その妻である陳氏が跡を継いで
陳麻婆の三代目の伝承者となります。
陳氏には息子がおらず、娘の魯俊卿が跡を継ぎ、
四代に渡る経営はすべて女性が切り盛りをしたという事になります。
創業から95年後、1956年に老舗飲食店が国有化
(国有企業になり)、四川省成都市飲食公司に属します。
陳麻婆豆腐店は当初看板がなかったので、客は皆陳氏の
顔のあばたを目印にしていました。
商売は繁盛し、徐々に名店として地位を築いた陳麻婆豆腐。
そして、
1960年代に四川省の著名な書道家の余中英先生が
“陳麻婆豆腐”の看板を書き上げました。
その看板がこの写真に写っています・・・
四川省の料理は、にほんじんにとっては「辛い」の一言ですが
中国料理の辛いにはいろいろあって、奥が深い辛さです。
私は、四川料理の代表料理でもある「火鍋」屋へ入るのが好きで
一口食べては、店の外で、甘いジュースを飲むような経験をしました
ただ、慣れとは恐ろしいもので、まだ離乳食期の赤ん坊にでも
平気でこの「火鍋」スープを飲ませていましたので
一体この人たちの味覚は大丈夫なのか?と思ったものです
*当時の中国には日本でいう離乳食と言うものは存在しなかったそうです
さて、彼はまた動物園へ行っています
動物園の入り口近くで何やら人だかりが
絵をかいていますね、子供たちに囲まれても売れなかったでしょうから
脚気養生なのか、1日に1枚でも売れたらよかったのか
これらも続けていれば、国家第一級技能師、などとお墨付きがもらえるのでしょうね
動物園での人気は絶対的にサル山でした
今日は遠足で子供たちが来ていたようです
で、ほったらかしのパンダ・・・
現在のパンダブームは日本人がもたらした物で
もし、日本へパンダが来なかったら
今もパンダの待遇はこんなものだったかも。
日本へ来たパンダが丸々と肥えて、中国へ返されたのを見て
本国でのパンダ待遇?が良くなったことは否めません・・・
成都の露天商が並ぶ風景
友人はカメラが本格的な趣味ではなかったために記録にとどまっていますが
あ~もっとこの時代に中国を極めたかったなあと
反省することしきり
もう少し成都の風景が続きます
*え~毎日これが続くのは、猛烈に忙しいからだとお察しください・・・