この一週間、高知空港周辺へ4日連続で通うという異例の事態

 

本当に偶然だが、時間と場所が少しづつずれてしまっている

この日は、少し早く着いたらこんなことが目の前で起こっていた

 

おいおい、空港の近所で野焼きは大丈夫か?

と思ったが、離着陸も少ない時間帯なので、きちんとその時間帯でやっているのだろう

 

 

ふと、仕事の担当者に(若者です)

「三里塚」って知っている?

と聞いてみたら

「現代史」的な記事で見たことが有ります・・・

という返事だった

三里塚闘争については、いくらでも資料が出てくるので調べてほしいと思うけれど

1966年6月からと記されいる、農地を成田空港にするために国が農民から

農地を取り上げようとして、農民の反対運動がいつしか学生運動家の闘争へと

発展していった事件だと理解している。

 

 

私がまだ小学生10歳の頃、東大安田講堂のニュースが流れ

* 大学から依頼を受けた警視庁1969年昭和44年)1月18日から1月19日に封鎖解除を行った事件

同年

パリではフランシーヌさんが凱旋門でビアフラのジェノサイドに反抗して焼身自殺

1969年3月30日の日曜日、パリの路上でフランシーヌ・ルコント(当時30歳の女性)が、

 ビアフラの飢餓に抗議して焼身自殺した

 

やがて三里塚(成田闘争)が激化し、あさま山荘籠城事件

*浅間山荘事件(あさまさんそうじけん)は、1972年(昭和47年)2月19日から2月28日

 

日本国内の三つの事件は全学連と呼ばれる学生運動家で繋がっていたのは

中学生になって知ることになる

 

すこしませていたのかもしれないが、岡林信康のフォークが心に刺さり

洋楽よりもフォークソングをよく聞いていた。

 

ふと、三里塚は今どうなっているのか?

 

*自分の中では、工事が拡張されすっかり摂取されて終わった

つまり強制代執行がすべて終わったと思い込んでいた・・・

 

少年誌(確かジャンプだったと思う)には小学生行動隊と写真入りで

当時の自分と同い年の子供たちがデモに参加するのが掲載されていたはず

この闘争は広くニュースになりれ、世間はどちらかというと

国の横暴に腹を立てて農民側の応援をするものが多い風潮だったのだが

機動隊員が三名殉職する事件辺りから学生運動家たちに向けられる世間の目が

変わっていったと記憶している。

 

まあ、遠い記憶がよみがえった一瞬であった。

 

下の矢印には「木の根」と書かれた文字が見える

これは木の根っこばかりだった土地を開墾したのでそう呼ばれるようになったなごりで

実は、この空港の中の此処に「木の根」というペンションがまだ存在している。

そしてそこへは自分の足で出かけてゆけるし、車で出向き宿泊も可能なようだ

 

上の矢印は「横堀鉄塔」です

 

まだ未接収エリアとして土地の所有者がいることを表している地図もありましたが

少しびっくりしました

B滑走路の先が、まだそこに当たるのです

平気で飛行機がガンガン頭上を越えて行く感じ・・・・

 

ちなみにB滑走路の南端には「東峰神社」(旧航空神社)があり

成田市の観光名所と書かれたふざけた地図もネットで見られました

そこも参拝が可能ですが、いたるところに監視カメラと

長くいると空港職員もしくは景観による職質を受けるようです

 

飛行機撮影者の立ち入りを禁止などという看板もたくさん並んでいます

 

木の根ペンションへは地下道が作られており

横堀鉄塔へは車でも行ける感じです(実際ユーチューブにて確認)

 

昭和の日本を震撼させた大きな出来後はまだ終わっていなかったのです。

すでにできてしまった成田空港をどうにもできません

土地の所有者が亡くなるのを待っているかのような状態ですが

自分が生きてきた時代の、何かがまだ、ここに残っているような

おかしな感覚を覚えました。

 

多分もうこれで私は三里塚の事を忘れることは無いと思います。

 

これらが、私の幼少期の出来事です

 

そして、

はるかかなたの出来事として高知県で高校生になっていた私の周りで

窪川町原発誘致問題が勃発します・・・

その事はいつか日を改めて、記憶の限り

どう考えて、何をして、そして大学生になって、

大坂で一人暮らしをし始めた私の身に何が起こったか

という事を書き残したいと思います。