ビルの谷間からお月様が昇った。

 

 機嫌よさそうな横顔をした三日月だ。

 

 そんなお月様の下を、Iは深刻な表情で歩いていた。

 

 

 Iは、まるで映画『鬼火』の主人公のような面持ちで、小脇には分厚い洋書を抱え、ひと気のない商店街を彷徨っていた。

 

 抱えている洋書は、クルト・セリグマンの『魔法』という大判の書物であった。

 著作中には、おぞましい悪魔の絵や神秘的なシンボルが挿絵として多数収録されている。

 

 クルト・セリグマンはシュルレアリスムの画家であり、またオカルトや中世美術に関する著作を多数持つ評論家でもある。

 

 そんなセリグマンの代表的な著作が、この『魔法』なのだ。

 

 装丁も美麗で分厚く、使用されている本文用紙も美術書用の特殊な紙で、紙に大理石の粉末を練りこんでいるので光沢がある。

 

 したがって、本自体に重みがあるのだ。

 

 そんな本をIはどうして、場末の商店街に持ち歩いているのか。

 

 それは、この本を売りに行くためであった。

 

 彼は、最後の頼みの古書店に持ち込もうとしていた。

 

 何軒かの古書店に持ち込んだが、とても納得できる査定金額ではなかった。

 

 それで親しくしていた古書店の親父に頼み込んで、この稀覯本を高値で買い取ってもらおうという魂胆だった。

 

 しかし、そんなIの目論見は外れた。

 

 商店街の隅っこにある古書店はシャッターが降りていて、そこには「店主病気のため、当分休業いたします」との貼り紙があった。

 

 普通に考えて、直接訪ねて行く前に、電話か何かで確認するだろうに、Iはそんな手順を怠っていた。

 

 

 心身共に疲れ果てていたIは、そのまま商店街を放心したように離れた。

 

 そして、春には桜の名所として知られる川沿いを歩いていた。

 

 自暴自棄の気分になってきたI。

 今まで大切そうに抱えていた『魔法』を、いきなり頭上に持ち上げ、その川面に向かって放り投げた。

 

 すると、本はのどが大きく開き、まるでカラスのように表紙をバタつかせて、上空に舞い上がった。

 

 驚くI。

 

 宙に浮かんだ本から、悪魔やオカルトの呪符、奇妙なシンボルなどが飛び出し、お月様めがけてワルプルギスの魔女のように勢いよく飛行して行った。

 

 そんな光景を眺めながらIは大声で、

 

「天晴れ! 天晴れ!」

 

 と、叫んでいた。

 

 夜空の向こうに消えて行った悪魔やオカルトのシンボルを眺めながら、Iは大きく肩を落とした。

 

 そして、コートのポケットを弄った。

 中には、小銭ばかりで数千円があった。

 

 

 それからしばらくのち、Iの姿は川沿いにある立ち飲み屋のカウンターにあったという。