50代後半になるSさんは、現在は温泉街のホテルでマネージャーをしているが、元々は出版社の敏腕編集者であった。

 

 会社が投資会社に売られてしまい、会社に対する思いの強かったSさんはそのまま離職した。

 

 そして、東京のマンションを引き払い、海辺のホテル街へと引っ越して来たのだ。

 

 Sさんは3年前に奥さんを亡くし、今は独り身であった。

 

 彼が会社を去った理由は、職場でのいきなりな窓際扱いもあったが、最愛の妻を亡くしてしまい、心の支えがなくなってしまった事もあったろう。

 

 もし奥さんが生きていたら、また別の選択があったはずである。

 

 子どもはいなかったので、身ひとつの気軽な引っ越しであった。

 

 新しい職場にはすぐ慣れて、他の従業員ともうまく付き合えるようになり、ホテルの社長がかつての知り合いだったという事もあり、待遇も満足のゆくものであった。

 

 ホテル近くのマンションの一室をあてがってもらい、Sさんはそこに住んだ。

 

 6畳くらいのワンルームであった。

 

 そんな環境だが、なにか学生時代を思い出すようで、懐かしく思えた。

 

 学生時代、初めて住んだマンションが同じような造りの部屋だったのだ。

 

 その部屋には、後に奥さんとなるE子さんがよく遊びに来ていた。

 

 E子さんは、同じ大学の1年後輩だった。

 

 ふたりはミステリー研究会というサークルで知り合い、そのまま付き合い始めた。

 

 そんな思いもあって、Sさんは部屋に戻ると、言うに言われぬ懐かしさと同時に、寂しさを覚えたものだ。

 

 ある朝、Sさんは目覚めると、とある異変に気がついた。

 

 仏壇の前に置いてあった、E子さんの遺影を入れた写真立てが移動していたのである。

 

 寝る前に仏壇に手を合わせ、そのまま床に就いたはずであるが、遺影は触った記憶がなかった。

 

 その遺影は5センチ以上動いていたので、すぐに気がついたのだ。

 

 妙な事があるものだ、と思いながら遺影を元の位置に戻し、そのまま新しい職場に出かけた。

 

 そして、夜になって帰宅すると、今度はその遺影が倒れている。

 

 おかしいな、と感じながらSさんは、もしかしたらE子さんが来ているのでは、と思ってみた。

 

 季節は、旧のお盆に入った1日目であった。

 

 さっそくSさんは、仏壇に新しいお水を供え、線香を立てた。

 

 それからしばらくパソコンでメールをチェックしていたが、部屋にふと懐かしい匂いが漂うのを感じた。

 

 それは、E子さんがよくつけていた香水の匂いだった。

 

 Sさんは、とても奇妙な気分に陥った。

 

(もしかしたら、本当にE子が来ているのだろうか?)

 

 Sさんは、姿の見えないE子さんに向かって話かけてみた。

 

「E子、今ここにいるのか。そうなんだろ? なあ、E子。ずっとお前に会いたかったんだよ。‥‥‥もう知っていると思うけど、僕は会社を辞めたよ。あの新社長が勝手な判断で先代の大事な会社を売りやがってさ、僕は猛烈に反対したんだぜ。そしたら新社長は、僕の事を窓際に置いたんだよ。ねえ、わかるよね、E子なら。僕がどれほど会社を、仕事を愛していたかを」

 

 気がつかないうちに、Sさんは姿の見えない相手に向かって語りかけていた。

 

「僕が弱音を吐くタイプじゃないのは、お前も知っているだろ。それでも、E子が逝ってから僕は本当に辛かったんだよ。何だか目の前にあった道がプッツリと途絶えたような感じがしてさあ。もうどうなってもいいや、と思って会社を辞めて今の職場に流れ着いたんだ。そりゃ、前の仕事に対する未練だってあるよ‥‥‥。こんな事を言えるのは、やっぱりお前しかいないよな‥‥‥」

 

 Sさんは、とめどなく溢れる涙で目の前が見えなくなっていた。

 

 そのとき、涙でにじんだ視線の向こうに、なにか動くものが見えたような気がした。

 

 それは、E子さんが好きでいつも着ていた、薄ピンク色のカーディガンを羽織った彼女の姿のようにも見えた。

 

 Sさんはティッシュペーパーを無造作に手に取り、涙を拭った。

 

 しかし、視線の向こうにはもうなにも見えなかった。

 

 Sさんは、不思議な気持ちの高ぶりもあったが、そのまま明りを消してベッドに入った。

 

 そして、そのまま眠りに就いた。

 

 しばらく寝ていると、太ももを何者かに触られた感じがして、目が覚めた。

 

 生暖かい手の感触だった。

 

 そしてしばらくすると、今度は布団の中に誰かが入って来る感覚があった。

 

 Sさんの体の上に、何者かが乗っているような感じだった。

 

(E子なのか。E子、お前なのか)

 

 心の中で、Sさんが叫んだ。

 

 すると、掛け布団が大きくまくれ上がり、ゆっくりと下に落ちた。

 

 Sさんは、呆然とするばかりだった。

 

 

「あれはE子だったと信じています。本当に、今でも彼女には悪い事をしたと思っているんです。E子は晩年、体が弱っていて僕が遠慮して、同衾出来なかったんです。寝るのは別々でしたが、あるとき、彼女が布団の中から僕を見上げて『ぎゅっと抱きしめて』と言って来たんです。でも、そのとき僕は相手にしてあげられなかった。今から思うと、あれが彼女の最後の願いだったんですよ。‥‥‥そんなE子が僕の前に現れてくれた、というのがね、本当に哀れで仕方なかったんです」

 

 早朝のホテルのロビーでSさんは、

「じゃあこれで失礼します。マネージャーなんで、もう電話がバンバン入っていると思いますから」

 と言いながら席を立って、こちらに笑顔を見せた。

 

 そして、

「優しさってなんなのでしょうね。自分では優しい人間だと思っていましたが、僕はE子を亡くしてから、初めてそんな事を自問自答するようになりました。そのような僕のところにでも、彼女が来てくれているのだと思うと、彼女に対する深い感謝しかありません」

 と、静かに語った。

 

 

 ※過去記事に、加筆修正したものです。