Fさんは、京都の北のはずれでレストランを経営している。

 あまり目立たない小さなお店だが、口コミで美味しいとの評判が広がり、おかげで店はいつも繁盛している。

 

 そんなFさんの唯一の楽しみは、仕事がはけてからのこんなひとときである。

 

 仕事が終わって家に帰るのは、いつも零時を回った時刻。

 家族が寝静まったのを見計らって、庭にキャンピングマットを敷き、そのマットに仰向けになって寝そべるのだ。

 そしてFさんは、大の字になりながら、満天の星空を眺めるのである。

 

 空気の澄んだ京都の夜空を眺めていると、1時間に2度や3度は、流れ星を目撃することがある。

 一瞬にして消えてゆく、白色や緑色、金色に輝く流れ星の姿を見届けるのが、Fさんの楽しみであった。

 

 その日の夜も、Fさんは庭で寝そべりながら、星空を観察していた。

 日中が晴天だったおかげで、雲ひとつない星のさんざめくような夜だ。

 

 夜空をずっと眺めていると、天に向かって落ちてゆくような錯覚を覚える。

 無限に広がる夜空を眺めるのは、とても怖いことだとFさんは思った。

 

 家人からは、深夜に庭で寝そべるなんて、ご近所からおかしく思われるからと、やめるように言われたが、開放的なこの気分はなにものにもかえがたく、家人の意見を無視した。

 

 日中は暑かったが、夜になると風が吹いて、ほどよい涼しさだ。

 庭ではコオロギが鳴いている。静かな夜ふけである。

 

 そのときだ。Fさんは夜空に奇妙なものを発見した。

 百メートル以上の上空に、人の形をした白いものが飛んでいるのだ。

 

(なんや、あれは?……)

 

 Fさんは、思わず目をこすりながら、その飛行物体を凝視した。

 

 この近辺にはコサギが生息しており、たまに夜にも飛んでいることがある。

 最初、Fさんはそういったコサギの類かと思ったが、目視だが飛行物体はどう見ても人間くらいの大きさがあった。

 そして、そのヒトガタの飛行物体は、ちょうど人間が両腕を広げて足を伸ばしたような状態で、悠然と夜空を飛んでいたのだ。

 

(どこへ消えてゆくんやろう……)

 

 やがてその白いヒトガタの飛行物体は、南の方角へと飛び去っていった。

 

 しばらく呆然としていたFさんだったが、今見たもののことを考えると急に寒気がして、マットを放置したまま家の中に飛んで入った。

 

 自分の部屋に戻り、消灯してベッドに入ったFさんは、さっきのヒトガタについて考えをめぐらした。

 

(あんなもんを見たのは初めてや。……おい、待てよ……。俺からあいつが見えたのやったら、ひょっとしたら、あいつの方からも庭にいた俺が見えていたかもしれん……。まさか、目撃した俺に何かしにくることはないやろな……)

 

 そんなことを考えていた、ちょうどそのタイミングであった。

 窓の外で突然、バサバサという激しい羽音が響いたのだ。

 驚いたFさんは、慌てて布団の中に潜り込んだ。

 Fさんは、そのまま朝方までベッドから出ることができなかった。

 

 その翌日、よく眠れぬままお店に立ったFさんだったが、昨夜の出来事は家人には内緒にしていた。バカにされるに決まっているからだ。

 場合によっては、それを口実に唯一の楽しみを奪われてしまうかもしれない。

 

 その夜、ひょっこりとFさんが尊敬する近所のご隠居が、お店を訪ねてきた。

 ご隠居は、すでに80歳を越えるが、大変な知識人であり、いつもかくしゃくとした態度で、Fさんの話相手になってくれる。

 

 Fさんは、ご隠居に昨夜の話を振ってみた。

 すると、ご隠居はしばらく黙っていたが、こう切り出した。

 

「あんた、見たんやな。それは天狗や。お山が近いやろ。そのお山から飛んでくるんや」

 Fさんは、ご隠居が冗談を言ったのだと思って、笑った。

 しかし、ご隠居は静かに話を続けた。

 

「あのお山では、ちょくちょく目撃者がいるんやけどな。この辺でとはなぁ……」

「ちょっと待ってください。すると僕は本当に、天狗を見たとおっしゃるんですか」

 Fさんは、慌てて問いただした。

「そうや、天狗や。なかなか見れるもんでもない。我々がふだん気づかないだけで、あれはいつも空を飛んでいるんや」

「まさか……」

 

 だが、不思議なことを淡々と語るご隠居の口調には妙な説得力があり、本当に天狗なるものがいるのかもしれない、とFさんは思えてきた。

 

(すると、昨夜のあの羽音はなんやったんや。あの音は、窓の外から聞こえてきたが、どうも上からしていた気がした。もしかしたら、屋根の上に天狗が降り立った音だったのかもしれん……)

 そう考えると、ふたたび寒気が襲った。

 

 こわばった表情になったFさんに気付いたご隠居が、こう言った。

「Fさんは、流れ星を観察してたんやろう。大昔は流れ星のことを、天を走り抜ける狗(いぬ)の姿にひっかけて、『天狗』と呼んだそうや。そやから、たくさんの流れ星の中に、そんなものが混ざっていただけのことや。それだけの話やないか」

 

 そんなご隠居の話を聞きながら、Fさんはもう夜空を眺めるのをやめようと、ぼんやりと考えていた。

 

 

 ※過去記事に、加筆修正したものです。