午前中、お花見がてら目黒川沿いを歩いた。
朝から薄曇りで少し寒く、途中から小雨が降ってきたため、レインコート姿や傘を差して歩いている人も目立った。
川沿いの桜は、八分咲きから場所によってはほぼ満開。
見上げる空は薄曇りだったが、その薄灰色の空と淡い桜の桃色が絶妙に溶け込み、印象派の画家でも表せないような色調の空間を醸し出していた。
しかしやはり寒いので、目黒川沿いの蕎麦屋に入る。
ここは隠れ家的に知られるお店で、自分は天ぷら蕎麦と日本酒をいただいた。
こんな日に、切子の徳利と猪口でいただく冷酒は格別である。
半地下に差し込んだ外光を眺めながら思い出したのだが、以前このお店に若い頃お世話になったSさんをお誘いしたことがあり、そういえば自分はその時と同じ席に座っていた。
人の話によれば、Sさんはすでに亡くなっているそうであったが、最後にお会いした時も今日のような薄曇りの日だったことを思い起こした。
その時、Sさんはヨレヨレになった彼の名刺を差し出して、こう言った。
「これはね、僕の名刺の最後の一枚なんだ。でも君にあげるよ」
自分が遠慮をすると、Sさんは無理やり押し付けるようにして、さらにこんなことを言う。
「この名刺、紙が凝っているでしょう。京都の有名な和紙店で仕入れた用紙なんだよ。それから印刷はね、下町の活版屋で職人さんに活字を組んでもらったんだ」
「すてきですね」と自分がそう言うと、Sさんは、
「この和紙は手触りが良くってね、名刺を受け取ってもらって、後でまたこの名刺に触れた時にね、ふと僕のことを思い出してもらえるように思ったんだよ。だから、こうして凝った名刺を持っているんだ」
今ではSさんのように、名刺ひとつにしても紙質や印刷についてこだわりを持っている人も少ないと思うが、薄曇りの空と桜の薄桃色が支配する空間にいると、Sさんの名刺の手触りが緩やかに思い出された。
視覚と触覚、体感があわさった、いつかどこかで覚えた懐かしい感覚が、幻の中から蘇って来る気配がした。