小学生の頃、同級生にSくんという子がいた。

 

 Sくんは、友だちのいない少年だったが、どうしたわけか自分とはウマが合った。

 

 多分、こちらが彼の話をよく聞いてあげていたからだろうか。

 

 ある初夏の日、白いカーテンがたなびく教室の窓辺で、わき立ってくる入道雲をふたりで眺めながら、Sくんの不思議な体験談を聞いたことがあった。

 

 それは、次のような話だった。

 

 

 Sくんはある日、お母さんに頼まれて商店街へ買い物に出かけた。

 

 すると、その帰り道で彼は、楽隊やピエロ、白馬に乗った美女などの奇妙な一行と遭遇した。

 

 それはサーカス団だった。

 彼らは、今夜の何時から地元の公園で興行を打つ旨のチラシを配っていたのだ。

 

 Sくんは、その一行の最後尾にいた、孔雀の羽飾りの冠を被り、白いレオタードとピンクのタイツを身につけた女の子からチラシを受け取った。

 

 女の子は自分と同い年くらいで、ちょっと照れ臭そうにSくんにチラシを手渡した。

 

 チラシをもらったSくんは、家へ帰るとお母さんにお小遣いをもらい、そのお金でサーカスを見にゆくことにした。

 

 ワクワクしながら夜の公園に向かうSくん。

 

 もしかしたら、またあの女の子に会えるかもしれない、という期待もあった。

 

 

 その夜は風が強く、公園に張られた赤い天幕が大きく風にたなびいていた。

 

 Sくんが天幕の中に入ると、もうショーは始まっていた。

 

 楽隊の音楽に合わせて、会場内を慌ただしく走り回るふたりのピエロ。

 

 白馬に跨って、観客席に愛想を振りまきながら曲馬を見せる煌びやかな衣装の女性。

 

 しばらくするとシルクハットを被った髭の団長が現れ、厳かにこう紹介した。

 

「それでは、当一座の可憐なる花形、コバト嬢によります空中ブランコをお見せいたしましょう」

 

 10メートル以上の高さに組まれたヤグラの上に、スポットライトが当たった。

 

 そこには、Sくんにチラシを手渡してくれた女の子が立っていた。

 

 彼女の緊張と共に、心臓音がこちらにも伝わってくるようだ。

 

 固唾を飲んで、その姿を見守るSくん。

 

 空中ブランコにぶら下がり、女の子は静かに様々な体勢を取った。

 

 大きな緊張感が会場内を包み込む。

 

 演技は10分ほど続き、女の子は最後にブランコに足をかけて大技を披露する動きを見せた。

 

 だが、手が滑って、彼女はそのまま下に張られていた安全ネットに落下してしまった。

 

 その瞬間、観客席から大きな悲鳴が上がった。

 

 すると楽隊が突然、賑やかな演奏を始め、奥からピエロが飛び出し、会場を右往左往するパフォーマンスを繰り広げた。

 

 団長に支えられながらネットを降りた女の子は、明らかに悔しそうな表情をしていた。

 

 それから、女の子のことが気になったSくんは、天幕の外に出た。

 

 すると、少し離れたトレーラーの前に、女の子はポツンと立っていた。

 

 夜空からは、冷たい雨が降っている。

 

 女の子は、その雨に打たれながら涙を流していた。

 

 Sくんは、足元に生えていた赤い花を取って、それをそっと女の子に差し出した。

 

 女の子は無言で花を受け取ると、悲しそうな目をしながら微笑んだ。

 

 ふたりはそのまま雨に打たれて、トレーラーの前で向かい合っていた。

 

 

 その翌日、サーカスの天幕はすっかり片付けられ、公園は日常に戻っていた。

 

 天幕が張られていた跡をしばらく歩いてゆくと、Sくんは女の子にあげた赤い花が、ペシャンコになって打ち捨てられているのを見つけた。

 

 

 自分は、この話をSくんから聞いて、そんなサーカスの公演なんていつあったのだろう、と母親に聞いてみたが、母親も「それは初耳だねぇ」と言う。

 

 ただし、昔はたしかにその公園で、サーカス団がテントを張って公演を打っていたということだった。

 

「昔って、いつくらいのこと?」

 

 と聞いてみると、それは母親がまだ幼い頃のことで、はるか戦前の話であったそうだ。

 

 まず、法律的に子どもがサーカスで働けるわけがない。

 

 ただ、戦前にはそういった子どもたちもいたらしい、と母親はポツリと付け加えた。

 

 

 ※過去記事に、加筆修正したものです。