遅い昼食をデリバリーのマックで済ませると、ケチャップの付いた包み紙をゴミ箱に放り投げ、Sさんはカメラを持って外に出かけた。
そして、公園で遊ぶ子どもたちを狙ってシャッターを切った。
Sさんは、プロのカメラマンである。
晴れの日も曇りの日も、雨の日も雪の日も、外に出て何かを撮る。これがSさんの日課であった。
しばらく近所を歩き、数十カットを撮影をした。
仕事場に戻り、撮影した写真をPCのモニターで確認する。
薄曇りの空に、薄暗い街の風景がそこにあった。
自分は、なぜこんな写真しか撮れなくなってしまったのだろう。
街は、こんなに灰色だっただろうか。
少なくとも、20年前は違っていた。
Sさんは最近、20代から30代にかけて撮影した、フィルムの写真をクローゼットの奥から引っ張り出してきた。
今はすでに、注文がない限りデジタルで撮影している。
しかし、もともとSさんはフィルムに愛着があり、10年ほど前までフィルムを使って撮影していたのだ。
そんなフィルムで撮った作品が今、目の前にある。
作品は当時、自ら暗室に入って焼いたものばかりであった。
自分の作品を、全てデジタル化しようと思って地味な作業を始めたが、途中で根気が続かなくなってしまい、そのまま放置しているのだ。
そんな写真が、何千枚あるだろうか。
20年前に撮った写真。
写っている友人たちも、みんな若い。
Sさんは、ファイルの写真を手にとって、軽いため息をついた。
それらの写真は、1枚1枚が生き生きと輝いていた。
“どうして、こんな写真が撮れなくなってしまったのだろう”
Sさんの胸には、懐かしさと同時に、取り返しのつかないものを喪失した思いが去来していた。
そして写真を、静かに眺めた。
今から見れば、ただのスナップ写真だが、写真の中の人物は、みんな楽しそうだった。
被写体は、当時付き合いのあった仲間たちだ。
このうち、何人かはカップルになって家庭を持った。
“みんな、若いな‥‥‥。このファイルは、俺がギャラリーで個展をやったときのものだ”
楽しそうに抱き合う男女、奇抜な髪型やファッションの若者も目立つ。
“俺も、まだ30になってなかったもんな”
写真の中に、当時付き合っていた彼女の姿を見つけ、センチメンタルな気分になった。
“あれっ?”
Sさんは、別の写真に目がいった。
その写真には、ひときわ目立つ細身で長身の女性が写っていた。
“これ、誰だっけ? ヒロシの横にいるから、ヒロシの彼女かな”
ヒロシというデザイナーの友人の彼女ではないか、とSさんは推測したのだ。
その女性は、Sさんの好みだった。
目は細い切れ長、瓜実顔でボブカットをしている。
服装もセンスがよく、まるでファッション誌から抜け出てきたような女性であった。
“おかしいな。こんな子がいたら、絶対に知り合いになっているはずなのに”
そう思って、Sさんはその後のファイルに目を通した。
すると、それから数カ月後の日付のあるファイルの中に、またその女性を見つけた。
今度は、どこかの室内であった。
部屋の壁は薄汚れていて、古いアパートのような印象だったが、その部屋でさっきの女性が赤い襦袢を身にまとい、ベッドの上で肌もあらわなポーズを取っている。
そして、彼女の目はじっとカメラを見詰め、官能的な表情を浮かべていた。
他にも数点、同じ女性を撮った同じ室内の写真があったが、こんな写真を撮った記憶がSさんにはなかったのである。
もしかしたら、誰かの作品が自分のファイルに入り込んでいたのかもしれない、と思いながら写真を眺めていたが、その部屋の壁に掛かっていた鏡に、カメラを手にしたSさんの姿が写り込んでいた。
“これは、俺が撮ったものなのか?”
しかし、どう考えてもこの女性には覚えがなかったのである。
そして、この撮影現場も全く記憶になかった。
Sさんは写真をスキャンして、モニターで拡大してみた。
Sさんはよく、モデルになってもらう女性の部屋で撮影をするので、その部屋は女性の部屋なのだろうか。
写真をよく見ると、部屋の真ん中には小さなちゃぶ台があり、その上に1葉のハガキがあった。
拡大すると、そのハガキには住所と名前が書かれていたが、その住所は「〇〇区〇〇町○番地××荘」とあり、宛先の名前は「××トキコ」と書かれていた。
この「××トキコ」が、この女性の名前なのだろうか。
Sさんは、しばらく会っていなかった友人のヒロシにその写真を添えて、こんなメールを出した。
『ちょっと聞きたいことがあるんだけど。お前、この子を知っているか? 俺の20代の頃のファイルに入っていた写真なんだけど、この子、もしかしたらお前の知り合いじゃないかなと思って』
ヒロシからすぐ返信が来たが、全く心当たりはないということであった。
ここで、女性に関する手がかりがプツリと途絶えた。
しかし、 Sさんはこの女性のことが気になった。
自分が撮影したとして、どうしてこんな魅力的な女性を忘れることがあるだろうか。
その時、ふとあることが閃いた。
このハガキに書かれていた「〇〇区〇〇町○番地××荘」を訪ねてみるのはどうだろうか。
〇〇区は、Sさんの住んでいる隣の区なので、明日にでも散歩がてら出かけてみよう、そうすれば何か思い出すかもしれない、と思った。
翌日、ハガキの住所を訪ねてみた。
当該の住所には3階建てのマンションが建っており、いくら探しても「××荘」というアパートはなかった。
“もしかしたら、老朽化でアパートが壊され、跡地にこのマンションが建ったのかもしれない”
Sさんは、そう納得した。なにせ、20年近い過去の話なのだから。
ちょうどそのマンションから、管理人らしき老人が出て来たので、その老人に尋ねてみることにした。
「すみません。以前この住所に××荘というアパートはなかったでしょうか」
老人は、Sさんの顔を怪訝そうに見上げると、こんなことを言った。
「このマンションが建つ前に、確かにここに××荘というアパートがあったよ。ただし、このマンションは築40年だから、もう40年以上昔のことになるがね」
Sさんは、その話を聞いて、呆然としながら重い足取りで帰路に着いた。
“あの部屋はどこにあったのか。俺はあの女とどういう関わりがあったのか。そして結局、あの女は何者だったのか”
同じような疑問が、何度もSさんの脳裏に繰り返し現れた。
翌日、いつもの公園にSさんはいた。
Sさんは、カメラを公園の桜の木に向けた。
すると、ファインダー越しに襦袢をまとったトキコの姿が映った。
(そう、私のことなんて誰も知らない。誰も覚えてはいない。誰の記憶からも私はすり抜けてゆく)
どこからか、こんな女の声が聞こえた。
そして、Sさんが慌ててシャッターを切ると同時に、女の姿は消えた。
※過去記事に、加筆修正したものです。