晩ご飯を済ませて、一家団欒でテレビを観ているのか、楽しそうな声がどこからか響いて来る晩秋の夜。

 

 そんな夜に路地を歩いていると、ふと思い出す話がある。

 

 ある地方都市で、うら寂しい居酒屋に入ったおり、先客だった中年男性から聞かされた話だ。

 

 Kさんと名乗るその男性は、遠くを見つめながら、懐かしそうにこのような話を語り始めた。

 

 

 Kさんの子ども時代というから、高度成長期後半の頃の話である。

 

 Kさんの近所には、学生や独身サラリーマン、夫婦者などが住む古い木造アパートが何棟も建っていた。

 

 ある日、そんなアパートの前に張り紙がしてあった。

 

『お子さんのセーターを編みます。毛糸ご持参ください』

 

 それを見たKさんの母親は、家にずっと放置してあった毛糸を何束も抱えて、その張り紙の主にKさんのセーターを頼みに行った。

 

 翌日、Kさんは母親とその部屋を訪ね、巻尺でサイズを測ってもらった。

 部屋の主は、太った人のよさそうなおばさんで、母親に気を使ってか、

「かしこそうなお子さんですね」

「将来が楽しみですね」

 などとおべっかを使っていたのが、Kさんにはおもはゆくてしかたなかった。

 

 数週間ほど経って、手編みのセーターが仕上がってきた。

 レンガ色の地味なものだったが、既成の品にはない暖かみがあった。

 思っていたよりも仕上がりがよかったので、母親は大喜びだった。

 

 Kさんの母親は、そのおばさんと仲良くなって、お菓子を持参したりとか、その後も時々部屋を訪ねて行ったりしていた。

 たぶん、話し相手がほしかったのだろう。

 

 ある夜、母親がKさんに声をかけた。

「おばさんのところに一緒にくる?」

 おばさんとは、セーターを編んでくれたアパートのおばさんのことだ。

 家にいるのが面白くなかったKさんは、喜んでついていった。

 

 夜も8時を回っていたが、おばさんはKさんと母親を歓迎し、お茶菓子を出してくれた。

 おばさんは、母親と近所の噂話やどこそこの市場の惣菜が美味しい、などという他愛のない会話をしていた。

 そんな会話を聞くのに退屈してきたKさんは、そろそろ帰りたくなってきた。

 だが、その時ふと思いついて、こんなことをおばさんに聞いてみた。

「なにか、怖い話知ってる?」

 

 おばさんは、しばらく考えていた様子だったが、

「それなら水狸の話をしてあげようか」

 と、このような話を語り始めた。

 

 まず、水狸を呼ぶには、水道の蛇口を少し緩めて、ポトポトと流し台に水を流すのだという。

 そして、T字型の木の先に筆を取り付けた道具を手に持ち、その筆の部分を紙の上に置いて、水狸に質問する。

 すると水狸は、その道具を勝手に動かして、用意された紙に質問の答えを書いてくれるという。

 

 その話を、しばらく黙って聞いていたKさんの母親は、

「そろそろ帰ろうか」

 とKさんに言った。

 せっかくの面白そうな話なのに、と思いながらもKさんは黙って頷き、おばさんの部屋からおいとました。

 

 Kさんはアパートから帰る道すがら、彼の母親が、

「××さん、子どもにあんな話を聞かせて」

 と、愚痴っていたのを、夜の暗さと共に覚えている。

 

 その年は、木枯らしが例年より早くやってきた。

 10月上旬だというのに、身を切るように冷たい風が街中を吹き抜けていた。

 

 Kさんは、寒いので小学校から帰って外で遊ぶよりも、家でなにか面白いことをしようと考えていたが、ふと、アパートのおばさんが言っていた水狸の話を思い出した。

 

(たしか、T字型の木を使うんだったよな。あとは、筆と紙か。筆はめんどうだから、鉛筆でいいかな)

 

 家の中を探して、結局、台所にあった割り箸を輪ゴムでとめてT字型の道具を作り、その先に鉛筆を同じく輪ゴムで取り付けた。

 紙は習字に使う半紙を用意した。

 

 薄暗い台所にある水道の蛇口を、ゆっくりひねったKさん。

 水道の水が、ポタポタと音をたててしたたり落ちる。

 

 幸いなことに今日は母親も不在で、家には自分ひとりきりだ。

 不思議なことが大好きだったKさんはワクワクした。

 本当に水狸はくるのだろうか。

 そして、質問に答えてくれるのだろうか。

 

 台所を背にして、ちゃぶ台の上に半紙を広げ、割り箸のT字部分を両手に持ったKさんは、鉛筆の部分を半紙の上に軽く乗せた。

 

 うしろからピチャ、ピチャ、ピチャという水のしたたる音が響いてくる。

 音に意識を集中していると、Kさんは車酔いしたような、妙な気分になってきた。

 

 その時、手に持っていた割り箸がピクンと動いた。

 割り箸が勝手に動いたような感触だった。

 そして、ピクン、ピクンと動きながら、割り箸の先の鉛筆が半紙に線を引き始めた。

 Kさんは驚きのあまり、手を離そうとしたが、割り箸はそのまま自動的に動き始める。

 

 もはや、身体の自由がきかないと言った方がよいだろうか。

 額に冷や汗が伝わって来る。

 

 そんな恐怖の中で、Kさんはまず質問をしてみた。

「あなたは水狸ですか」

 しかし、何の反応もない。

 

 しばらくすると、また鉛筆がピクンと動いた。

 そして、ゆっくり文字のようなものを書き始めた。

 半紙に書かれた文字のようなものは、このように読めた。

 

『セーターがほしい』

 

 ギョッとなったKさんは、慌てて割り箸を放り投げようとしたが、全く身体が動かなかった。

 

 さらに、うしろから何者かが近づいてくるような気配がした。

 恐怖のあまり、Kさんは泣きそうになった。

 

(助けて!)

 

 その時、帰宅したばかりの母親が、水道の蛇口をぎゅっと閉めて、水滴を止めてくれた。

 そして、

「何してたの!」

 とKさんを激しくしかりつけた。

 

 それから母親はおもむろに、ちゃぶ台の半紙を手にとった。

 その半紙を見た母親は、そのまま無言でそれを破り捨てた。

 

 Kさんは、その後のことはよく覚えていないという。

 ただ、母親から全身に塩を撒かれたことだけは記憶しているそうだ。

 

 翌朝、起きて台所に行くと母親が、せっかく編んでもらったセーターをほぐして、毛糸の玉に戻していた。

 

 後日、Kさんはひとりで、水狸の話をしたおばさんのアパートの前まで行ってみたが、おばさんはアパートから引っ越してしまっていたようであった。

 

 

 ※過去記事に、加筆修正したものです。