けたたましい野鳥の鳴き声で目が覚める。

 

 ぼんやりとしながら台所に立ち、お湯を沸かして挽きたてのコーヒーを淹れる。

 

 それから、ふと遥か昔のことを思い出した。

 

 

 20代初頭の頃だろうか。

 その当時住んでいた廃墟のような下宿の近くに、もう何十年とやっていそうなレストランがあった。

 

 レストランといっても、そこから浮かぶような今風のこじゃれたものではなく、人の通らない細い路地の一角にポツンとある、常連さんしか通わないような質素な佇まいの古風な街の洋食屋さんである。

 

「F」という名のそのお店は、古びた緑色のホロの上に取り付けてある看板に、「グラタン ビーフシチューの店」と書かれていた。

 

 ずっと気にはなっていたが、自分にはやや敷居が高いような気がして、何度も前を通り過ぎるだけであった。

 

 そんなある日、知り合いになったY子さんからクリスマスに食事のお誘いを受けた。

 

 女性から食事に誘われたことなどは今までなかったので、ちょっとためらいはしたが、それならと思い、クリスマス・イヴにその「F」に行くことにした。

 

 幸いY子さんも「F」のことは知っており、やはり彼女も気になっていたそうだ。

 

 当日、Y子さんとは「F」の近くにある教会前で合流し、そこからふたりで「F」まで歩いて行った。

 

「F」の路地のある通りは、延々と続くエンジュの並木が日本離れした光景に映って、自分の好きな通りであった。

 

 今ならネットで検索すれば、おおよそのことはわかるのだろうが、当時は口コミかまずは中に入ってみるしかなかった。

 

 恐る恐るお店の扉を開けると、中はカウンターとテーブル席が3卓ほどの狭い店内であった。

 

 そして、お店の中に漂うデミグラスソースの香り。

 

 石油ストーブの上には鍋がひとつ置かれていた。そこからその匂いがしているのだろう。

 

 厨房には、短髪のおじさんと割烹着のおばさんがふたりで立っていた。

 

 おじさんの方は、いかにも頑固一徹の調理人という風情で、こちらも緊張する。

 

 カウンターに座って、まずはグラタンとビーフシチューを頼む。

 

 そして、メニューにあった赤ワインも注文した。

 

 ワインは、赤玉ポートワインだったような記憶がある。

 

 こちらは老職人の手際の良さを眺めながら、出てくる料理を楽しみにしていた。

 

 同じタイミングで、グラタンとビーフシチューがカウンターの上に乗った。

 

 まず、ビーフシチューをいただく。

 

 自分とY子さんはふたりして、同時に「美味しい!」と口にした。

 

 よく煮込まれたバラとモモ2種類の肉と、薄口なのにコクのあるデミグラスソースの風味豊かなこと。

 これは絶品だった。

 

 オーブンでよく焼かれたグラタンも、エビやマッシュルーム、玉ねぎ、鶏肉が調和よくそれぞれの味を醸し出している。

 

 なぜ、もっと早く来なかったのかが悔やまれた。

 

「F」のおじさんは知られざる名調理人に違いない、と思った。

 

 当時は、恐れ多くてむやみにお店の人と話をすることなどは出来なかったが、退店するときに、

「本当に美味しかったです。ありがとうございます」

 と、レジにいたおばさんに伝えて、外に出た。

 

 おじさんは、作業中だったのに厨房からこちらを向いて、

「ありがとうございます。また来て下さい」

 と、声をかけてくれた。

 

 その夜は、ホワイト・クリスマスではなかったが、山が近いためであろうか、夜空から少しだけ雪が降って来ていたことを覚えている。

 

 古い木造の教会からは、賛美歌「羊はねむれり」が聴こえて来た。

 

 

 以上が、自分のクリスマス・イヴ、というかグラタンとビーフシチューの思い出である。

 

 派手さもなく、なんとも質素な、そんな思い出ではあるが、今でも「F」で食べたビーフシチューとグラタンの温かさ、過去の思い出がたくさん詰まったその味だけは覚えている。

 

 しばらくして山の近くにあった下宿を引き払い、街中に住んでいたが、あるクリスマス・イヴの夜、ふと「F」のことを思い出しお店の前まで行ってみたが、店内は真っ暗で人の気配はなく、どうやら「F」は閉店してしまっていたようであった。

 

 なんともいえず寂しい気分だった。

 

 それから、エンジュの街路樹が連なる道をひとりで歩いた。

 

 しばらくすると、夜空からちらほらと粉雪が舞い始めた。

 

 そして近くの教会からは、子どもたちの清らかな賛美歌が聞こえて来た。

 

 

 ※過去記事に、加筆修正したものです。