もう使う人も見なくなったが、10年ほど前までは、仕事関係や付き合いのある人の電話番号を書き込んだ、自分の電話帳を持っていた人も多かったと思う。
文房具店などで売られており、持ち歩きできるように判型はスマートにデザインされ、名刺サイズなどもあった。
Sさんは、そんな名刺サイズの電話帳を20年以上に渡って愛用してきたが、携帯電話を使うようになってからは、その電話帳は引き出しの奥にしまっていた。
とある日のこと、引き出しの中から、背をビニールテープで補修した、黒革の電話帳が出てきた。
懐かしさもあり、電話帳に誰の名前が載っていたかを確認するため、ページをめくってみた。
ページをめくるたびに、懐かしい名前が出てくる。
だが、その半数はすでに故人であったり、音信不通となっている友人のものであった。
(おそらく、もう使われていることはないだろうな)
そう思いながらも、Sさんはその中のいくつかの番号に電話をかけてみた。
もう使われていないとわかっていながら、電話をするというのもおかしな話だが、Sさんはそれを確かめたかったのだ。
案の定、20年以上会っていない友人の電話番号は、すべて「おかけになった電話番号は現在使われておりません」というガイダンスが流れた。
(こんな無意味なこと、これで最後にするか)
そう思いながら、 Sさんは最後に選んだ番号にかけた。
それは、10代の頃の友人であるBさんの電話番号だった。
Bさんとは、かれこれ20年以上も会っていなかった。
番号を入力したところで、やっぱりこんなことはやめようと思い、電話を切ろうとしたが、意外なことに呼び出し音が聞こえてくるではないか。
(まずいな、きっと今の電話番号の所有者に繋がったんだ)
慌てて、電話を切ろうとしたSさん。
すると、電話の向こうから、懐かしい声が聞こえてきた。
「はい。 Bですが」
独特の低音は、確かにBさんのものだった。
「あ‥‥‥。あの、Bくん? 久しぶり、Sだよ」
Sさんはとりあえず、そう口にするしかなかった。
すると、電話口の向こうのBさんは、
「おう、久しぶり。元気そうだね。どうしたの?」
そう言いながら、いつものように笑った。
一瞬、どう言えばいいのかわからなくなったSさんは、
「Bくんこそ、元気そうで何より。いきなり電話してしまって、悪かったね」
まず、そう言って詫びた。
「そんなことはないよ。どうした、急に懐かしくなって電話でもくれたのか?」
と、Bさんは笑いながら口にした。
Sさんは、まさに図星のような気分だった。
電話帳を眺めているうちに、Sさんは過去の様々な出来事を思い出し、そんなことを誰かと話したかったのだ。
SさんとBさんは学生時代からの友人であり、青春の一時期を共に過ごした仲であった。
社会に出てからも、お互いに仲良く遊んでまわった。
それからしばらくして、Bさんは結婚し、少しずつ疎遠になって行った。
「なあ、Bくん。奥さんはお元気かい」
何気に、Bさんにそんなことを聞いてみた。
「うん‥‥‥。妻も元気だよ」
その話を聞いて安心したのか、Sさんは一方的に、Bさんに向かって思い出話をしはじめた。
しばらく、そんな話が続いたが、肝心のBさんの反応がよくない。
(そうだ、あれからもう何十年と時が流れてしまったのだ。電話帳に載っていた人も、半分はいなくなっていたじゃないか)
「‥‥‥すまない、つまらない話をしてしまって」
Sさんは、しばらく沈黙するしかなかった。
その後は、Sさんの方からBくんも忙しいだろうから、もうこれで失礼するよ、と言って電話を切った。
(久しぶりにBくんと話をしたのに、つまらないことばかり喋ってしまったな。きっと気を悪くしているぞ)
Sさんは、しばらく自己嫌悪に陥ってしまった。
(俺も、大人になれてないな。それに比べて Bくんは、俺の自己満足な会話の相手をしてくれた。あいつ、昔からそうだったよな‥‥‥)
そんなことを思って、Sさんは手にした電話帳を見つめた。
それから、しばらく経ってのこと。
Sさんは、Bさんと共通の友人Nさんと電話で話をした。
Nさんとも、久しぶりの会話となる。
その中で、SさんがBさんに電話をかけ、Bさんと懐かしい話をした、という出来事をNさんに伝えると、
「おい、Sくん。いいか、 Bくんは10年前に亡くなっているんだよ。君は知らなかったのか。先に奥さんが亡くなり、その後を追うようにBくんは自死したんだ。確かにBくんの死に様はショッキングだったから、あまり周知されなかったかもしれないが」
Nさんは、Sさんに対して不信感を抱くような言い方で、こう話した。
Sさんはもう一度、Bさんの電話番号にかけてみたが、「おかけになった電話番号は、現在使われておりません」という無機質なガイダンスが流れるだけだった。