「そうやな、ほな、わしが今までで一番怖いと思った出来事を、話そか」

 

 そう言って、印刷業を営むNさんは、場末の喫茶店で出された、泥水のような色のコーヒーをすすりながら、身を乗り出してこんな話を聞かせてくれた。

 

 Nさんが、大阪の専門学校に通っていた頃の話である。

 

 当時のNさんはお金がなく、安い下宿を学校から紹介してもらい、そこに住んでいた。

 

 実家から、家出同然で大阪に出て来たNさんだったので、どんな部屋でもあればありがたかった。

 

 2階にあったその部屋は、3畳程度の台所と6畳間で、5000円の家賃。それは当時としても、破格だった。

 

 もちろん風呂はないが、ガス、水道、電気も普通に使えた。

 

 そして、室内は意外にも小綺麗で、隣近所の壁は薄いが、かろうじてプライバシーは守れる。

 

 しかし、下宿を取り巻く環境があまりよくなかった。

 

 夜になると、近所の飲み屋街から、しょっちゅう酔っ払いの罵声が響き渡った。

 

 また、昼夜に関わらず、近隣でパトカーのサイレンが聞こえたし、実際その下宿も何度か空き巣に入られたという話であった。

 

 俳優の藤原釜足によく似た管理人は、

 

「あんたも、戸締りだけはしっかりとしといてぇや」

 

 と、人の好さそうな笑顔で言った。

 

(えらいとこに引っ越してもうたなぁ‥‥‥。まあ、半年くらいしたらバイト代もたまるし、そしたらまた引越しや)

 

 Nさんは漠然とだが、先行き何ともいえない不安を感じた。

 

 Nさんの階下には、70代後半くらいのおばあさんが住んでいて、何かとNさんに声をかけて来た。

 

「Nはん、よかったらこれ食べて。あてが作った炊き込みご飯や」

 

 そう言って、Nさんの部屋に炊き込みご飯を持って、訪ねて来たりもした。そんなことが、幾度かあった。

 

 そのおばあさんは、こざっぱりとしていて、髪の毛を染めていたせいか、見た目は歳より若く見えた。

 

 管理人の話によれば、今でもどこかで水商売をしているそうであった。

 

「××さんも、寂しいんやろ。あんたきっと、××さんから孫みたいに思われてんねんやろな。ええ人やから、話し相手になったげたらええわ」

 

 管理人は、そう言いながら笑った。

 

(そう言われてもなあ‥‥‥。まあ、おばあちゃんやから、ヘンなことにはならんやろから、ええか)

 

 Nさんは、そう考えながらも、なんとなく面倒くさいような気もした。

 

 それからしばらくすると、下の部屋が騒々しくなった。

 

 壁を叩くような、時たま天井を突き上げるような音が聞こえるようになったのだ。

 

(なんやねん、あのおばあちゃん、何しとるんや。今度、ちょっと管理人にゆうたらんとあかんな)

 

 深夜になっても、下の階からの物音は聞こえるようになり、Nさんはうんざりし始めた。

 

 ある夜のこと、酔っ払って帰宅したNさんは、すぐ布団に入った。

 

 そのまま爆睡していたようであったが、激しい物音で目が覚めた。

 

 物音は、台所から響いて来た。

 

(なんや、どないしたんや。何かが壊れるような音やったぞ)

 

 まだ酔いが残っているせいか、ふらついた足元で台所を覗いたNさん。

 

 そして、そこにあった光景を見て、Nさんはけたたましい叫び声をあげた。

 

 台所の流しの下には、ザンバラ髪をした老婆の生首があったのだ。

 

 その生首は寄り目になりながら、Nさんの方を向いてニタニタと笑っているではないか。

 

 Nさんは悲鳴をあげながら、その生首に向かって、目の前にあったコップを取って投げつけた。

 

 コップは生首に命中し、今度は生首が「ギャッ」と悲鳴をあげた。

 

 そして突然、生首は消えたかと思うと、階下で大きな物音が響いた。

 

 呆然としながらNさんが、生首のあった場所に行くと、そこには頭が入るくらいの穴が開いており、そこを覗くと階下の部屋の一部が見えた。

 

 慌てて階段を降り、管理人室に向かったNさん。

 

 管理人が、寝ぼけ眼で管理人室から出て来た。

 

「どないしたんや、Nさん」

 

 管理人がNさんに、驚きながら尋ねた。

 

「そんなん、わしの方が知りたいですわ。うちの部屋の下のおばあちゃんが、わしの部屋の床に穴開けて、部屋を覗いたはったんです」

 

 Nさんは、そうとしか答えられなかった。

 

「何やっとんねんなあんたら、もう‥‥‥」

 

 管理人はブツブツ文句を言いながら、おばあさんの部屋に向かった。Nさんはその後ろを、こわごわついて行った。

 

 Nさんと管理人が、おばあさんの部屋を覗いてみると、頭から血を流したおばあさんが、ニヤニヤ笑いながら部屋の中央に立っていた。

 

 Nさんは、すぐに引越しを決めた。

 

 階下のおばあさんは、いつの間にか姿を消し、無人となったその部屋を覗くと、台所の天井板が剥がされて、そこには真っ暗な穴がぽっかりと空いていた。

 

 

「なんでそんなことをしたんでしょうね、おばあさんは」

 

 自分は、Nさんに聞いてみた。

 おそらく、ちゃんとした回答は得られないとは思いながら。

 

「それは知らん。ホンマ、あんなことは初めてやったからな。おばあちゃんは脚立を使って、自分の台所の天井板を剥がして、わしの部屋の床に穴を開けとったんや。ほんでわしの部屋に首を出しよったんやで。なんでやて? それは、あのおばあちゃんに聞いてほしいわ」

 

 当時のことを思い出したのか、Nさんは不機嫌そうに、そう口にした。