以前にも書いたが、夜の11時から午前1時の2時間だけ開くという謎のスナックが近所にある。
そのスナックの営業時間が、最近午後7時から9時へと変更された。
だが、やはりいつ前を通ってもお客の姿はなく、カウンターにママさんらしき女性の後ろ姿があるのみである。
近所の事情通にそのお店の情報を聞くと、以前は旦那さんとママさんがおふたりでやっていたが、旦那さんが亡くなってからはママさんひとりでお店を開けているらしい。
時間帯が変わったのは、やはり遅い時間に開けていても客が来ないので、営業時間を繰り上げたのだろうか。
以前からずっと気になっていたので、この機会に勇気を出してお店に入ってみた。
ドアを開けると、ママさんが一瞬驚いてこちらを振り返った。
客で入って驚かれるとは思わなかったが、そのリアクションもわからないではない。
おそらく、長い間客など訪ねて来なかったのに、沈黙を破って客という名の“闖入者”が出現したのだから。
「ああ‥‥‥、いらっしゃい」
60代後半くらいだろうか、美しいママさんである。
「あのう、こんばんは。お客、いいですよね‥‥‥」
自分が恐る恐る尋ねる。
「あなた、この辺で時々見かける方ですよね。ご近所にお住まい?」
と、ママさんが聞いてきたので、
「はい、この近所に住んでいます。いつもお店の前を通るたび気になって、一度は入ってみようと思っていたんですが、その願いが叶いました」
と冗談ぽく言う。
ママさんは、どうぞこちらへとカウンターの椅子を示した。
「うちは、この前まで夜1時くらいまで開けていたんですよ、以前からの習慣で。でも、最近はお客さんが少なくなって来てね。以前からご近所さんが多かったの。でもほら、皆さんお歳で順番にお亡くなりになられてね、ひとりずつお客が減って行ってしまって‥‥‥」
ママさんはカウンターの中に入ると、そうしんみりと話した。
「えっと、ビールをお願いします。後、何かおつまみみたいなものはないですか。メニューは‥‥‥」
「これがメニュー。でも、いま出せるのはチーズとクラッカーくらいなの」
と言って、手書きのメニューを手渡された。
出来ないのだから、そんなメニューを見ても仕方ないのだが、何となくしげしげと目を通す。
昔はナポリタンやピラフ、サンドウィッチなどの軽食もあったのか。
もしかしたら、お昼もやっていたのかも知れないな。
などと、このお店の往年を想像する。
栓を抜いて、ママさんがビールを注いでくれる。
だが、なんとなくぎこちない注ぎ方だ。
もう長らく客にビールなどを注いだことはなかったのかも知れない。
クラッカーとカットしたチーズがお皿に乗せられて出される。
「いつくらいからこの辺にお住まいなの?」
とママさんが聞いてくる。
「もう、長いですよ。昔からこのお店のことは気になっていたんですが、入る機会がなかったんです。今日は本当に気まぐれで入らさせていただいて」
「あなた、自営業っぽい人ね」
「そうです。自由業ですかね」
と言って自分が笑うと、ママさんはじっとこちらを見つめている。
「昔はね、うちのパパさんとふたりでお店をやっていたんだけれど、そのパパさんも亡くなってしまってね、それからはずっとひとりでお店をやっているんですよ。ほら、そこの壁にパパさんの写真がかけてあるでしょう」
そう言って、壁にかかっている恰幅のいい男性の写真を指さした。
「何度かお店を閉めようかとも思ったけれど、たまに昔からのお客が入って来てくれるし、何となくそのまま続けているんですよ」
ママさんは、遠くを見つめるような目でそう語った。
自分はビールを飲みほした。
空になったコップに、ママさんが再びビールを注いでくれる。
「また来てくださいな。こうして暇にしていますから」
そう言って、ママさんは笑った。
しばらくとりとめのない会話をして、1時間ほどでお店を退出する。
なんだか、やはり不思議なお店であった。
あのお店の中だけが、どこか遠い異郷にいるみたいに、現実の時空から切り離されたような感じがした。
ママさんもどことなくエキゾチックな風貌で、若い頃はモテたのだろう。
それにしても、あの旦那さんの顔には見覚えがあった。
以前、あのお店の前を通った時、ママさんと一緒にカウンターに座っていた人物ではなかっただろうか。
その時は、珍しくお客が入っているな、と思って妙に印象に残っていたのだ。
しかし、それが旦那さんが亡くなる前だったのか、それともその後であったかは、記憶が定かではない。
まあ当然ながら、亡くなる前という事になろうが‥‥‥。
今夜は、曇り空で星は見えなかった。
明日は早朝から雨のようだ。
また寒くなりそうである。