天気予報では、午後から雨となっていたがその予報通り、夕方くらいから雨が降り出し、激しい雨が降ったりやんだりしている。

 

 うんと若い頃の話だが、こんな天気の夜には、いきなり友人のアパートに訪ねて行った。

 

 部屋にいても気持ちが張りつめてしまって、やりきれないのである。

 

 そんな時、友人たちの顔が浮かんだ。

 

 急に会いたくなって来る。それで、いきなりなのだ。

 

 いきなりといっても、仕方ない。

 

 当時は、部屋に電話を引いている人が少なかった(携帯電話などはずっと後の世の話だ)。

 

 おおむね公衆電話を利用し、用事があればアパートの玄関にあるピンク電話で呼び出してもらった。

 

 しかし、呼び出しも他のアパートの住人が出るため、遅い時間にはかけられないのだ。

 

 そこで、いきなり訪問する事になる。

 

 当時はそれでも通ったのである。

 

 雨に打たれたぬれねずみが、古いモルタルのアパートの階段を上って行く。

 

 トントントン、いる?

 

 たいがい、友人たちは薄暗い裸電球の灯る部屋で、ごろんと寝転びながら音楽を聴いて、酒を飲んでいるのだ。

 

 そして、こちらをくるりと振り向いて「おお、来たか。お前のために酒を用意しておいたぞ」と笑いながら、しょっぱなから日本酒を勧める。

 

 こちらが、どんな切羽詰まった心理状態のときでも、そんな友人たちは優しく受け入れてくれた。

 

 空きっ腹に日本酒はこたえるが、それでも話をしていると不思議に空腹感もなくなり、気分が楽になって映画や音楽、美術、読書の話となって行く。

 

 皆、それらについては一家言を持っており、そんな話を縦横無尽に朝方まで語り明かしたものだ(隣室からうるさいと注意があった時もある)。

 

 貧しかったけれど、楽しくもあった。

 

 まさにユートピアだった。

 

 たまに、そんな友人たちに再会したいと思うが、出身地に帰って地元で落ち着いた人がいたり、すでに鬼籍に入った人もいて、時の流れを感じる事がある。

 

 一度は手放してしまったユートピアであるが、今となって思うのは、かけがえのない素晴らしい時間であったという事だ。

 

 先日、そんな友人のひとりが住んでいたアパートの前を通りかかった。

 

 当時から古いアパートだったが、さらに老朽化が進んでおり、壁には蔦が絡まっていた。

 

 人の気配はなく、もうアパートには誰もいないのではないだろうか。

 

 もちろん、その友人がそこにいないのはわかっている。

 

 だが自分は、友人がいた部屋に向かって手を合わせ、心から彼らに感謝した。