先日、近所のBARで常連さんと会話を交わしていたときに聞いた話である。

 

 常連のひとりであるIさんはウェブデザイナー。

 長らく勤めていた会社から独立して、今はフリーとして仕事をされている。

 

 Iさんの仕事場がお店の近くなので、たまにご近所の噂話が登場してはママのHちゃんらと盛り上がる。

 

 と言っても、ごく他愛のない事ばかりである。

 

 どこそこのお店が閉店して、そこに新しく整体院が入っただとか、並びにあるBARのマスターが自転車で転倒して足にけがをした、だとか。

 

「自転車、便利だけど気をつけないと怖いわよね。Iさんはいつも自転車だから」

 と、Hちゃんが水を向ける。

 

「俺なんて、前に人が歩いていたりすると、ベルを鳴らすのが申し訳なくて後ろを最徐行して、ヨロヨロ倒れそうになりながら走ってるよ」

 と言いながら、Iさんはつまみに出された柿の種を口に放り込んだ。

 

「やはり歩行者最優先だから、前に人が歩いていたら歩道でなくても気を使いますよね」

 と、自分が感想を述べた。

 

 そんな話を聞きながらIさんは少しぼうっとしたようになって、

 

「あ‥‥‥、そういえばこの前、妙な体験をしたんですよ、自転車に乗ってて」

 と、こちらに向かって話し始めた。

 

「えっ、なになに」

 Hちゃんが好奇心いっぱいの目で、カウンターから身を乗り出す。

 

 ここからはIさんの話になるのだが、先日のよく晴れた日の午後、Iさんは自転車でポタリングに出かけたという。

 

 といっても、本当に近所をグルグル回る程度で、その日もいつもと変わらず、気分転換のつもりでゆっくり自転車を漕ぎ始めた。

 

 しかし、帰れば仕事が山積みとなって待っていた。

 

 そんな事を思い返して、急に仕事場へ戻るのがいやになってしまったIさんは、そのまま自転車を漕いで大通りを渡った住宅街へと向かった。

 

 現実逃避というやつであろうか。

 

 たまに通る住宅街だったが、そこでしばらくユルユルと自転車を走らせるIさん。

 

 その住宅街の一角には、とある奇妙な家があった。

 

 その家の壁には、全面に大きな鏡が取り付けられているのである。

 

 どういう意図で壁一面に鏡が取り付けられているのかはわからないが、Iさんは鏡に映った向こうから走って来る自分の姿を見て、それが自分だとはわかっていても、いつも奇妙な気分になったそうだ。

 

 当日もそんな鏡を眺めていると、Iさんの自転車の後ろから黒いワンピースを着た女性がすごい形相で走って来るのが映った。

 

 その姿に驚いたIさんは、自分が何か落とし物をしたので、その事を教えるために女性が走って来たのではないか、と思って後ろを振り返った。

 

 しかし、Iさんの背後にそんな女性の姿はなかった。

 

 人っ子ひとりいない路上であった。

 

 確かに振り返る寸前まで、後ろから走って来る姿が鏡に映っていたのだ。

 

 ギョッとなったIさんは、本気でペダルを漕ぎながら、その場から立ち去ったという。

 

「その家って、もしかしたら○○町にある黒い壁の家じゃないですか。鏡の事は知っていますよ」

 と、自分が口を挟む。

 

「そう、その家です。あの鏡の事も以前から気になっていたんだけど、その鏡に映っていた女の人がどこに消えたんだか、それがずっと気になってしまって」

 Iさんが、ややシリアスな表情で口にした。

 

 それを聞いていたHちゃんは、

「もしかしたら、たまたまIさんがその鏡で異界の女性を見てしまったのかも‥‥‥」

 と呟いた。

 

「うわー、やめて〜」

 とおふざけっぽく、Iさんがムンクの「叫び」のような形相で絶叫した。

 

「アハハ、冗談よ」

 Hちゃんはそう言ってから急に澄ますと、電子タバコをフッとふかした。