食わせ者 | サンドリヨンのブログ☆正統派歴女いざ参る!

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土佐の脱藩歴女が、いろんな歴史の旅と日常を綴ります。
 過去ログの(1564nhのブログ)では、本当に沢山の歴史を公開しています! 自分で書いておいて改めてへぇ~・・・なブログも、お時間ありましたら見てみて・・・・!!

まるでホラーが始まる序章のような展開。(笑)

 

人が良い親切な人と思わせておいて、一晩宿をお借りしたら途端に深夜に裏の顔をのぞかせて、いきなり襲いにかかる相談を始める。(笑)

 

この表情を見ていたら、なんだかそんな事を想像させられる。(笑)

 

前々から 北条義時 の父親である 時政 が、本当は頭の回る曲者だと言っていたのは、 源 頼朝 が生きていた頃より数々のあの手この手を考えてくる事でも、こいつ実は食わせ者・・・・

そうゆう事を思う場面がいくつかあったから。にひひ

 

 

時政の妻・・・正式には 後妻 ですが、元々は 平 清盛 の継母である 池禅尼 (いけのぜんに) の姪。 

そう元は平家に縁ある家ので・・・・、詳しく話せば池禅尼の子である

平 頼盛 の領であった駿河国大岡牧・・・現在の静岡県沼津市裾野市の代官を務めたのが父親であり、京都の下級貴族の出身であり時政とは随分と年の離れた夫婦だったという事だ。

下級貴族とは言え京の都の人間でもあった事で、 

坊門家 や 三条家 といった公家との婚姻関係を結ぶことができたのもこの後妻のおかげ。

時政の息子・義時の娘も、その縁で公家との婚姻が結ばれている。

 

前半では りく と言われた女性は、後に 牧の方 と呼ばれるのである。

 

 

牧の方の力添えもあり、北条は公家との縁談を多く取り持つ事となるのだが、それもこれも後ろ盾という力を持ち、幕府内での地位を上昇さていく足がかりとして、策を練っての事。

私の故郷土佐の 山内家 でも、やはり歴史の中で幾度となく公家と婚姻関係を結ぼうとしている。

それもこれも北条氏が策を練ったように、強い後ろ盾と朝廷への近道。 存在感アピールだったという事だと聞いている。

武士の時代の始まりからして、そうした策略は続いて行くのだ。

 

時代としては、より強いより利用価値のある公家の後ろ盾があれば、出世も見込めるとした事だった。

使えるものはなんでも使えだ!(笑)

 

そしてもう1つは、鎌倉幕府としての将軍家との繋がり重視。

 

北条や北条のライバルであった 比企氏 のような立場の人間らは、家の繁栄の為にも将軍の外戚としての立場と地位が欲しかった故に、そちらの方の婚姻関係にも余念がなかったとした事だ。

 

 

京の都人からしたら、鎌倉勢など所詮 田舎者 扱い。

 

それ故になんとか都人らを見返してやろうと、頼朝の時代より必死こいて娘を使って地位向上に務めていたとした事だった。

女はそんな使い道しか得られない時代だった・・・

 

そんなこれまた策略家な牧の方 (りく) とは、血の繋がりも何もない時政の娘のひとり 実衣 (阿波局) が、今後大河ドラマでの展開では意外な面を見せ始めていく。

牧の方とは対照的な人間なのだが、頼朝亡き後その夫であり頼朝の

異母弟である 阿野全成 (あのぜんせい) に、2代目将軍職の座の白矢を時政と牧の方らが立ててきた事で、自分が今度は姉 政子 に変わって 将軍の妻 となる決意を口にした時に、政子に貴女には無理よと器の小ささを指摘されて、実衣の夫・全成もその器にあらずと言われてしまったような事柄に、急激に姉に対する嫉妬心と共に、敵対するような気持を露にしてくる事となった。

 

実は御存じかと思いますが、時政の長女は政子ではありますが、本当のところ父親は時政でもその母親は腹違いという事で、義時らと母を同じとする実衣としては、きっと自分と夫の決心を伝えた時に、政子に否定された事で立場的には正妻の子である自分が、姉とはいえ何か下に見られて馬鹿にされたとばかりに、ライバル心に火がついたのではと思ったのだ。真顔

 

 

まっ、これはテレビでの感想だけどね。ウインク

 

 

今後実衣は、牧の方に負けぬ腹黒さを発揮してくる。

 

 

3代目鎌倉殿となる 実朝 は、生まれた時から北条政子の妹である実衣と全成夫妻が乳母となり、養育を任されて育てていた。

当時の乳母とは、単なる世話係ではなくてその子が将来出世した暁には、自分たちの立場も優遇されるとした事。

その為には必死になって相手が思うがままとなるようにと、必死になって育て上げていくのだ。(笑)グッ

 

頼朝や弟ら亡き後、最後まで生き残る事ができた源氏の御曹司。

だがこれまで身近に起こった出来事と、どうして兄弟らが亡くならればなかったのかとした事を、見聞きして体験してきた人間だけに、あまり2代目への後押しにも嬉しさは持てなかった。

その素質や器も乏しい事がわかっていたのかもしれない。

妻・実衣は別だが、その実衣にさえ二度と口にするなという始末。

 

全成は後に謀反の疑いをかけられて、生涯を終える事となる・・・・が妻実衣はその後も実朝の養育を続けて、政子ら側の人間として生きていたと思われている。 その実朝が3代目将軍職に就いたのは、まだ僅か12歳の頃。 2代目だった 頼家 が急病にかかり危篤状態に陥ったのをきっかけに、北条時政は邸宅に 比企能員 を誘い出して殺害。 同時に比企家の邸宅を襲撃して一族を滅ぼす。

 

 

これが 比企の乱 と言われている事柄。

 

 

頼家の病気祈願の為だとまんまと邸宅に招き入れた北条時政は、何も知らずに訪問した能員を、後ろから取り押さえて殺したとある。

それと同時に別の兵を比企の館に向かわせて、館に火をつけて頼家の子を産んだ 若狭局 そしてその子 一幡 もろとも葬る事となった。 一幡は時政にとっても孫にあたるけれど、その子が生きていては次の将軍はまた比企家の血も引く一幡となってしまう。

 

時政はどこまでも、思うままの北条の時代を望んだようだ。 それには比企ではなくて、北条の手元で育てた実朝でなければならない。 

権力の為には子も孫も関係無いとは、恐ろしい事だよ・・・・

 

しかし別の話しでは、この時難を逃れて若狭局と一幡は一時逃げ延びたとの話しもあるらしい。うーん

 

この時頼家はまだ危篤状態でこの事を知ったのは、その危機を脱した後の事だったそうだ。

北条らはその様子から、頼家は助からないだろうと思い。

普通は15日程かかる道のりを、乱直後から交渉して帰るまでの京との往復に、13日 という早業で戻り。おーっ!

京へ使いを出して、弟の実朝を将軍にして欲しいと願い出たという。

そしてその正式な辞令を持って、13日で鎌倉に戻ってきたところ。

奇跡的にも命を取り留めた頼家に、北条時政・牧の方らも驚いたが、妻子と比企を滅ぼされた事実に怒り、家来を集めて北条を討とうとして失敗した頼家に対して、今度は出家して伊豆に幽閉する事を決めた。その後は北条の差し向けた者により、殺されてしまうという最後を迎えるんだけどね。目汗

 

その殺害方法も、ちょっと独特ではあるんだが・・・・・ウシシあせる

 

北条の御乱心とも言える悪行が、これより始まるのだった。叫び汗

 

今年の大河ドラマは、ちょっと恐ろしい現実を見る事となる。(笑) 知らない方がよかったと思う人も出てくるかもよォ~~。ニヒヒ

 

12歳のまだ若すぎる新たなる将軍・実朝を邸に迎えて、思うがままに自由に操れる事を期待した時政は、この時既に70歳を向かていた。 その為に彼にもこれからの北条氏の栄耀栄華とした時代に対して、自身の生きる残された時間とした焦りも見え隠れしていた事も見られる。

 

幕府第一の実力者となった時政は、将軍の後見人というだけで満足せずに、今度は牧の方の娘婿をその次の将軍に立てようと策を練る。

その事を知った政子と義時は、父と母の陰謀を阻止するべくクーデターを起こして、時政を幕府より追放して鎌倉から追い出してしまう。

以後10年・・・・、伊豆の山奥で余生を送ったという時政。

 

 

そしてその妻であった牧の方もまた、時政死後は京の娘婿の元に身を寄せていて、13年忌仏事を娘婿の藤原国通の邸宅にて行っていた。 その場には宇都宮頼綱の妻となっていた娘と、孫となるその娘の姿もそこにあったというが、この孫娘が嫁いでいた 藤原為家 という人物は、あの百人一首でも有名な 藤原定家 の子供と言われる人で、枚の方の婚姻ネットワークの物凄さには驚く。(笑)

 

 

ところで私には、このふたりが今後不倫でもするんではと思ったりもしたんだがね。(笑) なんだか意味深な向き合い方に、先週の放送直後はネットでの書き込みに、なにやら怪しい陰謀を感じるとか、今後起こる梶原景時とのひと悶着に絡めて、何かが起こりそうといった声も聞こえてきていた。(笑)

 

 

まっ、それって全然ハズレでもないけどね。(笑)

 

 

でも、ちょっと多分他の人々が思う事とはズレていると思う。

 

 

実は梶原景時と実衣に琵琶を指導する為に呼ばれた 結城朝光 とは、ちょっとした出来事があってね。

頼朝健在の頃に、奈良の東大寺に寺領を寄進した折、彼の家来と東大寺の僧侶らとの間にいざこざが起こり、景時はその仲裁に入った事があったんだが、これまでの景時の見たまんま・・・・

言語態度に傲慢さが見えてしまい。

僧侶たちは余計に反感を持ってしまったんだよ。 そんな時に現れて言葉穏やかに事を収めてくれたのが、頼朝の子飼いの家来だった朝光。 せっかく自分が頼朝に褒めてもらおうと仲裁に入ったのに、なんだか上手い事横からおいしい所をかっさらわれたような朝光の行動に、景時は全然面白くも思えなかったんだな。てへぺろ

それで頼朝亡き後に、結城朝光を排斥しようと頼家に対して、

朝光に謀叛の疑い有りとの報告を役目としてしたという。キョロキョロ

 

 

ところが頼朝亡き後頼家が2代目に就任したと言えども、やっとこさ有力御家人らによる 13人の合議制 が決まったところで、まだまだ政治的にはまともまりも落ち着きも無かった。 ちょっとした事でも命取りになりそうな不安定な時期。

普段からあまりよく思われていなかった梶原景時の事を、朝光の事を讒言したとして御家人らはそれを利用。

連署を66名集めて鎌倉から追いやる事となったのだ。

 

その後の事は先ごろ大河ドラマのトークイベントに絡めて書いた通りだ。 真冬の1月20日夜10時ごろ・・・・

弓の大会を終えて帰る気の立っていた見知らぬ土地の武士たちと小競り合いとなり、あっという間の戦となり、一晩で命を失くす事なったとした事だった。 頼朝の為に何かと力してきた男も、自分を追い出した鎌倉幕府への恨みと、見知らぬ土地の土豪らに殺されてしまうなんて、真実は山に逃げ込み嫡男共々自刃したというが、なんだか悲しい最後を向かてしまった。真顔

 

 

これもこれまでの多くの人間らを、讒言しては死に追いやった報いと言えば、仕方ないかなとも思うけれども、

なんだか寂しい最後だなと思うのだよ。

まるで明智光秀みたい・・・・あっけない最後だ。

 

 

実衣が朝光と向き合ったシーンは、多分その後・そうゆう流れが来たのねとわかると思うが、後に朝光に対して景時という男が・・・・

「貴方の事を讒言しているわよ」 と、実衣が情報を伝えて事件のきっかけを作っているのだよ。(笑)

 

 

やっぱ好きだったのかな?(笑)

 

 

いや、好きになったのかな・・・・・( ̄m ̄〃)ぷぷっ!

 

 

実衣はこの結城朝光を・・・・爆笑