華と散る | サンドリヨンのブログ☆正統派歴女いざ参る!

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土佐の脱藩歴女が、いろんな歴史の旅と日常を綴ります。
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今年の大河ドラマほど、苦々しく毎回腹立たしい思いで見た作品はないのではと思っている。えー

 

それは私の中にも育った故郷でも、あらゆるところに 平家 に関わる事柄があったからだと思う。

でもこれまでは、例え源平合戦が舞台のドラマでも、義経と平家の戦いでも、頼朝が登場しても・・・・それほど腹立たしい思いで見た事などなかった。真顔

 

過去で言えば90年代初め。

 

 

正月になると、6時間~にも渡る超大型時代劇ドラマとして、2年連続で放送された日本テレビと確かTBS系の番組。

「源義経」 などは、けっこう好きでビデオに録画して何度も見ていたほどだ。

この2局連続して放送された作品では、 東山紀之 (TBS) そして 野村宏伸 (日本テレビ) が義経役を演じていて、その相手となる静御前をTBS系では 沢口靖子 日本テレビ系では 安田成美 が演じていた。 どちらも豪華俳優陣らが脇を固めていて、日本テレビ系では武蔵坊弁慶役を演じた里見浩太朗が、本物の矢を使った最後のシーンで、あと少しずれていたらとヒヤッとしたコメントを残していた。にひひ汗

 

今ならばあらゆる事柄で、例えスタントやリハーサルが行われたとしても、役者に本物の矢を射るシーンなどとは、明らかにNGだと思うけどね。(笑)

 

 

あの頃はお正月が待ち遠しくて、今年はどんな作品なんだと楽しみにしていた。

 

 

でも、今年の大河は本当に腹が立って仕方ない!!!ピリピリ

 

 

今夜放送の回は、いよいよ壇ノ浦へと追いやられた平家方が、最後の時を迎えようとする展開ですね。

 

写真は、コロナ前毎年 安徳天皇 を祀る山口県下関市にある

赤間神宮 内にて、行われていた歴史イベントでのシーン。

源平合戦から幕末維新までの山口の下関市に関わる物語が、寸劇を交えて夜の赤間神宮内の参道の階段をステージに見立てて、地元の人や観光客らを集めて披露されました。

 

今年はどうなんでしょうかねぇ~~。うーん

 

 

毎年 11月の土曜日 です。

 

 

入園無料だったと思うので、気になる方は覚えておいて下さい。

 

 

火の山公園から見下ろす壇ノ浦と言われた 関門海峡 の風景。

向かいは 北九州下関市門司港 手前は 山口県下関市 となっている。 私は九州に来てからもう何度も門司や下関を訪れていて、今の船でこの海峡を行けば、片道約10分ほどで渡り切る事ができる海峡の風景が好きで、何故か海が見たいとここへ来ることが多い。ほっこり

 

 

四国に住んでいたら、そう簡単には来れない場所だ。(笑)

 

 

シリアスな中にも笑いがある 三谷幸喜 さんの脚本でも、これほどまでにイライラさせられた事はない。

序盤での 源頼朝 の姿は、唯々女の尻を追いかけるだけの軟弱そうな男で、目と鼻の先の中でこんなにも女に手を付ける奴だったのかと、心底呆れてしまい・・・・・。

こんな軟弱で愚かな男に、我ら平氏一門は御先祖様方は、滅ぼされる事となったのかとうんざりするくらい。

憎らしくて腹が立って、やりきれない思いで一杯になってしまった。むかっ

 

 

もしや同じ平氏方であった今の子孫の方々は、誰もがそのイライラを募らせているんではと思うのですがね。

 

 

自らの娘 大姫 にも、愛しい婚約者でもあった 木曽義仲 の嫡男を討たせる命を出した父・頼朝の前にて、自ら自害させるような行為をさせて、妻である 雅子 らにその命令を撤回させられた頼朝は、その約束が果たされる前に既に事が終わっていたと知るシーンでも、今回のドラマ中でのブラックな頼朝の不敵な姿が露になっていった。

 

 

義仲の愛人で、義仲とは乳兄弟であり家来でもあった今井兼平の妹でもあり、美しく色白であったという 巴御前 は、義仲と別れた後に鎌倉に入り、頼朝の家来 和田義盛 に見初められて子をなしたという話しも残されている。

 

この木曽義仲と巴御前の悲恋の物語も、よく漫画やドラマなどの作品に登場する物語だが、今回のドラマ中では登場回が少ない割には、

いきなり裏切者扱い邪魔者扱いとされて、同じ源氏の中から追いやられて死の淵に立たされてしまうという。

義仲と巴の兄兼平は、共に最後の場面で再会を果たして、武士らしい死に場所を探して彷徨い。 粟津の松原 といった場所へ向かう途中で馬の足が深田にはまり、動けなくなった義仲が友の兼平を案じて振り返ったところで、 石田次郎為久 といった人物の放った矢が兜の内側に当たり、馬にうつ伏したところで首を斬首されたという。

 

 

ドラマ中でも台詞途中でのいきなりの暗転。

 

 

そして鋭い矢の音。

 

 

 

私には衝撃過ぎる場面であった。悲しい

 

 

頼朝死後政治を握る事となる 鎌倉殿の13人 中一番若かった 北条義時 ・・・・。 彼が頼朝の命で関わる人々のいかに死が多い事か。ぼけー

 

 

義時自身もドラマの序盤では、若々しいお茶目な優しい青年を見せていたが、頼朝に関わるようになり頼朝らと共に行動を共にする事で、

ドラマの中でも段々と顔つきが変わり、険しい表情が増えていった。

勿論役を演じている 小栗旬 君の演技力でもあるのだが、歴史を詳しく知らない人からすると、この先何が起こるのかとした事では、今はまだ源頼朝側の残虐な行為だが、次は頼朝亡き後からの 北条家 での肉親内での争いが激化していく事となる。

 

 

雅子に関して言えば、自らの跡継ぎらに刃を向けて、腹を痛めた子らを政権の為北条氏の為と、死に追いやって行く事となる。

 

 

なので今回の大河ドラマほど、肉親の血を見る事が多いドラマはないと思う。 そうした事柄が終わった後には、何とも言えない複雑な思いしか残らない。 一体誰がハッピー・エンドで終わるのかと、そう思ってしまうのである。チュー

 

 

勿論北条義時の物語だから、義時が最後は北条氏の政治政権での舵を握り、その子らが時代を継いでいく事となるのだが、そこへ行くまでは本当に辛く悲しい物語しかない。

何よりも身内内で争ったり、殺し合うなどとした事は、見ていて辛いとしか言いようがない。タラー

 

 

この物語で救いはあるのかな?

 

 

大河ドラマ 「平清盛」 の頃かな。

 

ブログを書いていたら、現代も続く平氏一門の集まりの会の方から、連絡を頂いた事がありました。

そうした集まりがあるんだなと驚いたんだけどね。(笑)

真面目に子孫や関係者の皆さんが、全国で集まり様々な活動を通して交流を続けている。

世の中では 源氏と平家 となると、戦国武将でも江戸の時代においても、何故か源氏の出とされないと、武士として出世が見込まれないとした事もあった。 そこまで平家を嫌わなくてもと言いたいものだが、京の都でやりたい放題力を我が物にしていた平氏を倒し、武士の世を開いたとした事でも、源氏の出となればとてつもなく影響力があったのでしょう。 誰もが知る戦国武将でも、わざわざ先祖は源氏の流れと偽って、躍り出た人もいたほどだから。凝視

 

 

私が生まれ育った四国や 高知県 では、当たり前のようにして平家一門らの 落人 としての物語が語られていたけれど、九州に来てからも九州各県下に残る落人伝説に、ここにも数多く足跡があったのだと驚いたものだった。

 

本当の 壇ノ浦 と呼ばれた戦場の海は、今の下関や門司港よりは、少し関門海峡に架かる大橋の外側になるんだそうだが、穏やかに見えるこの海もひとたび波が荒くなり、流れが変わってしまう事となれば、今でも大きなタンカー船が、事故を起こしてしまうほどの難所と言う事を忘れてはいけない。

 

先日歴史紹介番組で、その事を検証する実験が行われていた。

 

京から落ち延びる度に、周辺の水軍達を味方につけて、潮の流れも上手く利用してきた平家方だったが、壇ノ浦に来てからはとうとう読みを誤ってしまったか。

 

それまで平家方の船に優位に流れていた潮の流れが、ある時陸地にいる源氏方の援軍の方へと流れ始めた。

そして開戦から1時間半ほどして、あっという間に平家方は滅ぶ事となってしまったのです。

 

 

もしこの潮の流れが、最後まで平家方の味方についていたとすれば、その後の世の中の流れも少しは違っていたかもしれません。

ですがここで平家が滅ぶ事になったのは、その潮の流れのせいだけではないという事。 船の舵取りをしていた水夫を、ことごとく失う事となり、大事な船の舵をとる事ができなかった・・・・

その事を命令した源氏方の大将が、 源義経 なのです・・・・

ですが、本来はこうした時代であっても、舵を握る水夫までをそうした矢で射るとする事は、当時の戦としてもご法度な事であり。

義経はここでも残虐性を見せてきたとした事です。プンプン

 

 

源義経とは、これまでも多くのイケメンが演じる悲劇の武将とされて、兄・頼朝により最後は北に追いやられて悲劇的な最後を遂げるとした可哀想な人という印象が強かったけど、今回の大河ドラマの中では 菅田将暉 君がとてつもなく元気で目立ちたがりで、兄に負けないほどの残酷な面を持ち合わせた義経を演じていて、見る側も型破りな義経の印象に、意外にも好印象を抱いたコメントを寄せる人らもいるんだが、兄頼朝の血を思えば水夫を戦違反でやっつけてしまうくらいだから、菅田君のような義経がいてもおかしくはないなと思うのです。

まっ、真実はどこまで本当で嘘なのか、それはわかりませんけどね。

 

 

同歴史紹介番組では、平家の中でも弓矢で一番の腕を持っていたという 平知盛 の作戦を実験して体験。

波で揺れる船の上で、上手く矢を射る事ができたのかとした事では、

知盛らがやってのけたという船の上に板を渡した後、その上に立って矢を射るとした実験では、確かにそのままの状態で矢を射るよりも、

的中率が良かったとした事で、歴史は実証されたとしたものだった。

 

 

こうして知盛らは義経らと戦っていたんです。

 

 

それなのに、義経は禁を犯して水夫を射ってしまった。

 

 

これは反則技ですよ。上差しハッ

 

 

「平家の世ももはやこれまで、見苦しいものを残さぬように、全て海に沈めよう」 これが平知盛の最後の命令だった。

 

清盛の妻 時子 (二位尼) は幼い 安徳帝 を伴い、海の底にも都があると言って深い海に身を投げた。

安徳帝の母である 建礼門院 もその身を投げたのだが、源氏方の捜索で生け捕りとなり、唯一海の中よりこの世に連れ戻されてしまった人。 彼女が息子である安徳帝を祀るようにして建立したのが、下関にある赤間神宮の始まり。

 

この特徴的な門は、二位尼が安徳帝に言った海の底のより良き都の門とする。

 

ここには 宮内庁管轄 とされる 安徳天皇陵墓推定地 のひとつがある。 水門を潜り社殿まで行って左に折れると、平家物語縁の怪談話で有名な 耳なし芳一 の堂があって、そこを折れたら塀越しに背伸びすれば内部の大きな陵墓を見る事もできるが、確かこの門が開く時もあったような・・・・。

 

 

普段はこうして閉められているんだけどね。

 

 

宮内庁管轄の推定地は、西日本を中心として遠くは東北地方までに、5つの陵墓が存在している。

その1つは、故郷高知県にもあって・・・・

 

私はそこへも足を向けた事があったが、そこは山の中にありハイキング気分で行けると言えば行けるんだが、いよいよ平家落人と安徳帝らが最後を過ごした場所へと向かうには、その入り口となる場所まで車で上がった方がよいと思う。ほっこり

 

 

遥か下から登るには、歩いて来るには険しすぎる。

 

これ以外にも、熊本県宇土市にある推定地へも行ったが、ここは随分と忘れられていやしないかと思った次第。

 

 

推定された場所では、宮内庁が管轄するだけにそれらしい証拠が出てきているのも確か。 高知でもそうゆう事で、それぞれの推定陵墓とされる場所には、宮内庁の看板が立っている。

 

 

平知盛の子孫だと言われた宗家が治めた 対馬 にも、安徳帝の陵墓があってそこも推定地となっているのだ。

 

 

私が何度も通ったこの赤間神宮内のこの場所にて、不思議な体験をした事があった。 当時同じ会社で働いていた女子と旅をした時に、この耳なし芳一堂の側にある平家一門の供養の場にて、用意されていたろうそくに火を灯そうとしていたら、まったく風も吹いていないのに、まるで誰かに横からふっーと息をかけられようにして、何度となく火を消されてしまい。 すぐ側にいたその連れもその様子に驚いて、

思わず二人で顔を見合わせて、やっぱり・・・そうだよねと、

暗黙の内の了解の後に、苦笑いをしたとした事だった。(笑)

 

 

そしてもう1つは、高知県の推定陵墓を目指してひとりで山中にいた時。 ありえない声や音を聞いている。

それが今でもなんなのかわからなくて、明るい日中とはいえ一瞬後ろを振り向く事が怖くなり、帰るに帰れなくなってしまったとした事だった。

 

 

私は人より感が鋭いところもあるので、何か波長があってしまったのだろう。(笑) それでも怖いものは怖いのだよ・・・・・ウシシあせる

 

 

(耳なし芳一と壇ノ浦で亡くなった平家の亡霊)

 

 

関門海峡大橋の元にある義経と知盛の象・・・・

 

その周辺には、大河ドラマ 「義経」 の頃に義経や主要な役を演じた方々の手形がある。 

 

 

時間が経てばね、もうこうしたモノも忘れてしまわれていると思うが、今の大河ドラマを思い出して、また訪れて歴史を偲んでくれたらと思うね。ニコ

 

 

初めこそ有利であった平家方も、後半では義経の登場と共にその勝負が危うくなっていったようだ。

 

けれどその義経自体も、己の人生においてだいぶ危うい立場へと追いやられていく事を、彼はこの壇ノ浦では気がついていなかったろう。

 

 

戦神の生まれ変わりだと口にした 梶原景時 だったが、今後ドラマの中では義経を追い込む役となって行く。

 

 

その原因となったのは、一の谷の合戦後に四国へと向かう義経達。

摂津の国を出陣する時に、義経と景時は船に後ろへ進める為の櫓をつけるかどうか、その事で激論を交わしたというのだ。

「後ろに進める為の櫓」・・・・、つまり 逆櫓 (さかろ) としたものだが、義経は景時のこの発案を、 「逆櫓は逃げ支度」 と一笑。

有名な屋島の合戦に駆けつけた景時は、既に義経によって戦が勝利していた事で、笑い者となってしまったという。

 

プライド高い景時は、後に義経の事を頼朝に讒言 (ざんげん) し、この二人の兄弟の間に亀裂を生じさせる事となる。

 

 

景時自体も可哀想な終わりを迎えるけど、頼朝と言う人も平家の棟梁であった 清盛 に助けられたにも関わらず、父親の仇だの源氏再興だのと北条氏を味方につけて戦いを挑み。

結局は人間の弱さがあった事で、やったらやり返されると恐れて、数々の平家方だけでなくて、自らの味方側にも恐ろしい命令を出して、始末をつける事をしている。

私としては、平家よりも源氏の方が恐ろしくないかと思うのだがね。

 

 

平家は意外に家族や仲間意識が高い。上差し

 

 

敵の子であっても、事と次第では頼朝や義経ら兄弟のように、命をむやみに奪う事はしていない。

なのに、自分がやってしまえば自分が考えているように、やられてしまうかもしれないと思い、その前にさっさとかたずけてしまおうとしている。 あんまりだと言えばあんまりだビックリマーク

 

 

そうゆう人はろくな最後は向かえないと言うように、頼朝も義経も最後は悲劇だ。しょんぼり

 

 

昨今北条雅子の評価が上がっていると聞くが、それでも同族の中でやり合うなどとは、あまりにも恐ろしすぎる。

大河で長女の大姫を思う姿もあったが、結局この後は天皇の后にしてしまおうと、策略をねるのだった。

 

 

前回の最後では、北条義時がこんな事を言うシーンが出てきた。

 

「あなたは・・・・」 と聞かれて、自分にはここしかないと答えるシーン。

 

 

北条家の政権は、彼をはじめとしてその後140年・・・

源氏の世は僅か 30年 と言われている。

 

その北条家の歴史の物語では、もう何十年前にも大河ドラマとなった人物もいる。 頼朝は北条氏が味方とならなければ、表舞台に上がる事はできなかったろう。 そして北条家も頼朝についたが為に、あらゆる事柄に巻き込まれて、思わず願ってもいなかった事柄にも手を貸す事となって行く。 歴史とはそうゆうものだと思うが、

 

 

何にしてもだ・・・・・。

 

うちの御先祖さん達を追いやった奴が、あんな腑抜けな頼朝だとは、

せめて敵ならばどうどうと戦いを挑む姿を見たかったと思うのだ。

 

 

源氏の御曹司 だったというだけで、彼も祭り上げられていい気になって、自らの弟まで手にかけて、あのような男がもっと長く政治の世界にいて、京の都を牛耳ってしまっていたら、平家どころの問題ではなかったのではと思うのである。

 

 

恩をあだで返すとはこうゆう事も言わないか・・・・・真顔

 

 

壇ノ浦の夕暮れの海には、平家の赤い旗があちこちに浮いていたという。 残された人々は、それからも各地に落ちのびていき。

壇ノ浦で生き延びた女性らの中には、その後遊女へと身をやつした人もいたそうだ。 なによりも悲しい現実だ・・・・