先々週は大河ドラマ 「麒麟がくる」 にて、美濃のマムシと恐れられた 斎藤道三 とその息子 高政 との一騎打ちが放送になった。
道三の嫡男として生まれたはずの高政は、美濃の古くからの守護であった 土岐氏 が, 道三へ嫁がせた女が生んだ子とされていて、その女とは 土岐頼芸 の側室だったとも言われていて、自分の子を身籠らせたままで、斎藤家に送り込んだ。 その為に、その後生まれた嫡男高政は、実は道三の息子ではないとした話しも伝わってきた。
真意ははっきりしないが、少なくとも斎藤家は本妻の子ではないけれど、高政の事を大人になるまで育ててきた事実がある。
ドラマの演出の中では、土岐頼芸が高政の耳元で、まるで息子と疑わせるような言葉を話し、それを遠くで見ていた道三が、最後まで我が息子と言い切って死んでいった。
私なんて、この時の高政の甲冑の色が、大好きな長宗我部家の嫡男信親 のものと酷似していて、ちょっとときめいてしまったのだが、
身内でこのような惨い最後を向かるなんて事は、とても許されるべき事ではないと思った。
だが実際は、戦国よりも遥か昔から、家族間や身内間での憎しみ合いやいざこざ・・・・・。 こうした命がけの戦いにまで発展した事実が、
歴史の中には沢山刻まれてきた。 でもそのどれをとっても、とってかわった政権の頂点でも、勝者が長く生きた歴史はない。
高政自身もこの後、恵まれた人生を送る事はなかった。
高政と道三親子は、仲が悪かったとした事は事実とされているが、
その為に自分は斎藤道三の子ではないと、真っ向から信じたのか・・・
いや、そんな事どうでもよくて、只の親子喧嘩が戦国の習わしのようにして、戦へと向かわせただけなのかもしれないが、記録によればその
高政は、身の丈2メートル近くの巨漢であったという。
実は土佐の 長宗我部元親 の嫡男信親も、やはり170cmを越える大柄な男だったと言われている。
その信親の母親は、実は美濃斎藤家の人間だった。
只、道三とは別の流れをくむ斎藤氏であったともいうが、元親が美濃の斎藤氏の子女を妻に迎えたのは、 1563年 永禄6年 彼が25歳の時であった。 その頃の元親は、高知県安芸市そこを拠点に活躍していた 安芸国虎 に、居城であった岡豊城 (おこうじょう) を攻められている頃だった。
結婚の2年後、 1565年 永禄8年 に、信親が生まれている。
(明智光秀(中央)と妻と母ら一行は、高政軍から逃れて越前へ)
光秀が 元亀2年 1572年 ・・・・・近江滋賀郡を与えられて、織田より坂本に城の築城が許された頃。 道三の跡を継いだ高政軍から逃れて、一路越前の 朝倉氏 を頼り、落ち延びた後の兵卒1千人程度と、小さいながらも一国一城の主としてやれるほどになって行った頃の事。 光秀の重臣の中には、 斎藤利三 とした人間がいました。
この方は、道三の斎藤家とは違う流れをくむ美濃斎藤氏の人間でしたが、家系には諸説があると言う人もいます。
光秀に仕える前は、 稲葉一鉄 の元にいたそうですが、その後光秀に仕える事となったとの事でした。
利三も元は土岐氏と関りがある人間で、そこには光秀とも繋がりがあったという事。 その利三の妹という人が、元親の元へと嫁いだ娘だったのです。 こうした繋がりもあり、また光秀は元親と信長の折衝にも当たっていて、この事からも後に起こる 本能寺の変 に元親も繋がりがあったのではとした事を言う人も出てきたのです。
戦国時代と言えば、近隣諸国との繋がりを密にして、戦や有事の時にはお互いが協力し合う。 その為にもと、普段から婚姻関係や養子といった手段を取っていたのにも関わらず、何故元親は・・・・・・
わざわざ遠い美濃の地との婚姻関係を望んだのでしょうか。
元親の正室に、美濃斎藤氏からの輿入れ・・・・・
これには多分多くの家臣達も、驚いた事だろう。 いろんな書物を見ても、元親自身がこれを最初に望んだのか、誰かの入れ知恵だったのか、それはちょっとわかりませんが、彼がこの先 中央に出ていく為 には、血筋を選んだとした事をいう方々もいらしゃいます。
あるいは、中央の政権で権力者達と共に、肩を並べる為に・・・・・・
元々・・・・・元親自身の母親も、石谷光政 (いしがいみつまさ) の娘でした。 光秀の重臣であった斎藤利三の兄が養子となり入った家で・・・石谷家の娘の婿となっていた人物。 石谷頼辰 (よりとき) といった利三の兄の仲介で、結婚前にどうも元親自身が上洛をして、公家の 山科言継 (ときつぐ) を訪ねている。・・・・とした談話を話している長宗我部家の子孫の友親さん。
その山科は、足利義輝 の側近でもあったそうだ。
友親さんの話しでは、元親が長宗我部家の中に 「源氏 平氏 藤原氏 橘氏」 のいずれかの血を入れる事が必要と考えたのではとも言っている。 石谷光政自体が、清和源氏であり土岐氏の流れをくみ、
将軍義輝の側近でもあった事。 元親はより強い血脈を望んだのかもしれない。 この後実子信親の室にも、なんと石谷家に婿入りしていた頼辰の娘 を迎えている。
頼辰は、 織田信長 と長宗我部の調停役として、度々四国を訪問していて、明智家滅亡後は娘の嫁ぎ先である長宗我部家を頼り、最後は長宗我部家に仕えて、豊後国戸次川での合戦にて、戦死をしていると記録に残る。 また頼辰の義理の父である光政は、足利義輝が
松永久秀 や 三好三人衆 により暗殺された後、やはり
次女の嫁いだ土佐を頼り、元親の元へ向かい光秀家臣の頼辰を介して、信長との取次役となっている。
元親が望んだ強力な血脈が、彼らが没して江戸を迎えた頃・・・・・
信長や秀吉に翻弄されて、滅亡まで追いやられてしまったこれらの血の行きついた先は、 大奥江戸城 だった。
実は斎藤利三の子供の中には、 福 と名のつく子女がいた。
そう・・・・・、誰もが知るあの 春日局 である。
彼女が幼き頃よりどう生きてきたかは、歴史好きならば誰もが知る事であるが、彼女はすべての御先祖様達の願いを叶えた、人物となったとも言える女性。
その彼女のおじいちゃんとなる人が誰かというと、
この方・・・・・ 稲葉良通 こと、後の 一鉄 さんなのです。
大河ドラマでの役者さんは、以前 「軍師 官兵衛」 にて、官兵衛の息子 黒田長政 に殺された 宇都宮鎮房 という人物だったんだけど、今の大分県中津市の城 (館) に呼び出されて、いきなり暗殺されてしまったような人物だった。 なんかその時の風貌を思い起こさせてくれる扮装で、でも今回は光秀よりも信長よりも長生きをして、子孫は 豊後臼杵藩 の藩祖となります。
大分県臼杵市には、実は春日局が幼い頃。 一度臼杵にも住んだのではとした場所が残されています。
彼女がまだ福だった頃ですけどね。
この稲葉良通の姉が、あの 深芳野 でして、大河ドラマではあまり
説明がなかったと思いますが、そうあの斎藤道三の側室であり、
元・土岐頼芸の側室であり道三に譲られたとした曰く付きの女性だった人です。 つまり高政・・・・後の 斎藤義龍 を産んだ母親だった人です。
だからあれだけドラマの中でも、高政に対して何かと助言をして、道三との戦いへと導く事にもなったのかと、今更ながら思える事なのです。
良通からすれば、姉の子であり稲葉家の血も入っているだけに、美濃を守護する人間となれば、これほど嬉しい事はないものね。
さて、このブログも次回で最後となります。 (^^)v