収二郎ふたたび | サンドリヨンのブログ☆正統派歴女いざ参る!

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土佐の脱藩歴女が、いろんな歴史の旅と日常を綴ります。
 過去ログの(1564nhのブログ)では、本当に沢山の歴史を公開しています! 自分で書いておいて改めてへぇ~・・・なブログも、お時間ありましたら見てみて・・・・!!

歴史の中には、例えばこの人が演じてくれなきゃ気がつかなかったって人が、けっこういたりもする。 テレビや映画や漫画の中で、登場する事もなければ、今となっては埋もれてしまってるような人物。

 

坂本龍馬 だって、幕末の頃にあれだけ活躍したように思われていても、明治の時代ではもうけっこう口にする人さえいなくて、明治天皇の后が夢でみたって話題にならなければ、坂崎紫瀾 (さかざきしらん) が龍馬を主人公にした小説 「汗血千里駒」 を出さなければ、どんどん忘れられた存在になっていたかもしれない。

 

その点で言えば、某局の 大河ドラマ なんかは、私達の好奇心をくすぐるいい仕事をしていると言える。

 

その龍馬の仲の良い友の1人に、 平井収二郎 という人物がいた。 この人物の事は、それこそ幕末土佐の歴史や勤王党に詳しい人間でなければ、多分知られることがなかったであろう人物だと思ってる。 だって私も知らなかったから・・・・・土佐人なのにね。 ( ˆmˆ )

 

平井収二郎の家は、元は分家指扇家の家臣で、土佐の山内豊房が

5代藩主襲封の折に、本家家臣となり代々歩行格を勤めた家で、幕末には代役収二郎が他藩応接役として活動していました。

 

収二郎は武市半平太とも旧知の仲で、土佐勤王党の1人でもあって、

後に彼は京に滞在する事となり、土佐と京都 公家と山内 武市や土佐勤王党 などとの重要な繋がりを持つポストに就いて、連絡役てきな他藩接待役としての力量を発揮していきます。

 

土佐での侍の身分制度としては、古くは 長宗我部派 と後に土佐の主となった 山内派 とに大きくは分けられていて、 上士 と言われるのが山内派であり、 下士 と呼ばれたのが長宗我部派・・・・・・

又はその間にも、 白札 というのがあって、それはどちらかというと上士に近いのだが、しかし直接的には藩主に会うことも、城に上がることもはばかれる身分だった。

 

武市半平太は、この白札の身分ではあったが、扱いは下士とあまり変わらず。 切れ者だった為に、本人は藩主を慕い忠実な家臣だと思っていたが、その藩主である 山内容堂 からすれば、疎ましい輩でしかなかったのである。 特に武市が指揮した 土佐勤王党 の動きが、大嫌いでしょうがなかった。 武市は虐げられたままの下士である仲間たちの事を憂い。 なんとか殿様に認めてもらおうと必死であり、容堂は・・・・元々山内家の分家の出であり、自分が殿様になどなる身分ではないと思っていたのを、次々と藩主が亡くなる事態に直面して、山内家の家を失うわけにはいかないと、山内家と仲の良かった 薩摩 福井 宇和島 など、そして当時の老中 阿部正弘 などの力を借りて、容堂に白矢をたてて、うまいこと藩主にしてしまったという事柄があり、徳川は当時その権力である力を、弱めていっているさ中でも有り。

 

これまでは、問題を起こした家臣 (藩) などを、潰してもきたのだが、

今は古くから付き合いのある家臣を、失うわけにはいかないとした思いで、土佐とその仲の良い藩主らが、裏工作で進めた事柄を気づいていても気づかぬふりをした。

 

その恩義も感じていて、世の中が段々と倒幕へと向かう中でも、容堂は徳川方の人間としても、武市らの勤王党を厳しく見ていたのである。

 

大体身分が低い下士たちが、大手を振って活躍する事など、藩主としてはありえない事柄。 口では武市のいう事に、それらしい返事をしていても、腹の中ではとにかく疎ましく思っていたのだ。

 

そんな中で、ある日収二郎と 間崎哲馬 弘瀬健太 らが、京でとんでもない事件を起こしてしまう。

 

青蓮院宮令旨事件 である。

 

高知県四万十市にある中村城跡に建つ郷土資料館には、哲馬が四万十市の出身である事から、彼に縁のある品々が展示されているんだが、問題を起こした頃には高知の城下に居をかまえていた。

彼が生まれた頃は、幡多郡と呼ばれていた地域にて、庄屋を勤めていたが、その父親が高知に出て医療を開業。

 

幼少期から頭が良くて、16歳で江戸遊学 19歳で高知城北江ノ口村にて塾を開き。 その門下には龍馬の友である 中岡慎太郎 や

龍馬が脱藩する前に、脱藩して京へ向かった 吉村虎太郎 などがいた。 

 

平井収二郎も頭のいい人だった。 

 

そんな彼らがとった行動とは、・・・・・・・・

 

ある日江戸に滞在していた哲馬と弘瀬は、山内容堂より土佐への使いに出される。 土佐の国として藩としてのめんつもかかったような問題

・・・・・それを土佐の国へ帰って、至急役人どもに知らせろとの事だった。 そして容堂が滞在している関東と京都の情勢や、容堂の苦心ぶりも在国の役人に伝えろという事。

 

但しどうせ土佐へ向かうのなら、途中京都へ立ち寄り 青蓮院宮 や要路の公卿にも会って、関東での見聞を知らせておけとの別の用も命じた。 だがこの事が、後々容堂をも逆鱗に触れる背景を生む事となる。 えー

 

京で応接役を勤めていた収二郎に会い・・・・・

青蓮院宮とも拝謁を果たした2人は、江戸での情勢や容堂の奮闘ぶりを伝えると、宮はその事を褒めて他藩の心配などもしてくれて、土佐国は保守的空気が強くてと、2人は藩内の模様を伝え・・・宮からの言葉などを頂戴したいと願うと、宮は優しい言葉を2人にかけてくれて、その口上を前の藩主であった 山内豊資 (とよすけ) に伝えるようにと言った。

 

豊資は大老公として健在であったが、身分の低い彼らにそう簡単に会える人物ではなかった。 そして2人はついに宮へ 令旨 を賜るよう願い出る事となる。 令旨とは、指令のようなものかな・・・・・

そんな大事な言葉を、いやしくも下士の身分である哲馬と弘瀬そして

収二郎が、宮様に直接願い出てそれを前藩主に伝えるなどと、容堂からしたらとんでもない思い上がりだと思ったことだろう。もやもや

 

青蓮院宮はこれを快く受け入れて、大要を文章にして出させて、それを下に令旨を発した・・・・と、 収二郎の 「隅山春秋」 にはそれらを紹介した内容がある。 後収二郎の 「帰南日記」 には、事前にこの事を3人で話し合って計画していたとの告白も見られるが、そこのところはどうなんだろうか・・・・・。

 

哲馬と弘瀬が土佐に戻ると、すぐさま各所を周り・・・・・

仕置役・大目付に弁論し、翌日には奉行職以下にも、そしてその翌日には主席家老であった 深尾鼎 (かなえ) 安芸の 五藤内蔵 らの高知城下の邸を訪ねてその内徐々にその効果がみられ、そうして最後に山内豊資の元へと宮からの文が渡る事となる。

 

2人が特に具体的に改革の要諦とした事柄は、 人材拳用 兵制

財用 などで、まるで全てを任されているのは自分達だとばかりの振る舞い。 やがて豊資の決意のほどを伝える訓示も出たが、この時収二郎はまだ京都に滞在したままだった。

 

哲馬と弘瀬が行おうとしていた 藩政改革 の要請。

 

勝手な振る舞いと取られてもしかたない事なんだが、この頃の容堂はというと、将軍の後継問題にて大老 井伊直弼 と対立して、安政6年

1859年 には隠居謹慎の処分を受けています。 容堂とは隠居後の号なのですが、後に赦されて政局に復帰を果たすも、青蓮院宮令旨事件の頃には、彼に変わって第16代藩主として、12代藩主であった豊資の11男で、15代豊信 (容堂) の養子となっていた 豊範 が

安政6年 1859年 に16代藩主となっていました。

 

豊範は容堂と違って、土佐勤王党などの下士の身分に対しても、同情的な思いを持っていました。 しかしこの藩主豊範の命を受けずに陰謀を企てたとして、容堂は哲馬と弘瀬そして収二郎に、投獄といった形をとったのです。 全てのキャストが土佐国に揃った後・・・・・・

それぞれの取り調べが始まっていく。

 

収二郎の国事意見などは、容堂をいっそう不快な気持ちにさせて、その後収二郎は他藩応接役を退けられて、公家への出入りをすべて禁止されてしまう。 5月23日 軟禁状態にて屋敷に引きこもっていた

収二郎は、体調がおもわしくなくて一度は出頭命令を断るも、後に強引に引っ張っていかれて、キツイ調べに入ることとなる。

 

容堂は帰国直前に、青蓮院宮と拝謁した藩士から、宮様が三士が迫ったために、 やむをえず一封を与えた と言ったという・・ 宮様のやれやれなおそまつな結末を知る事となる。

 

これも真実なのかどうかわからないが、・・・・・・

 

大河ドラマ 「龍馬伝」 でも、この時のキツイ取り調べは、見ていても残酷な描写であった。 ドクロあせる 

 

3人が入っている勤王党の党首でもある武市半平太は、容堂の近辺で令旨問題に関する調査が繰り返されていて、このうえは先手を打ってできる限り明らかにして誠を示す方が得策だと、動いていたのだったが、彼らを助けることは叶わずして、 6月7日 容堂と豊範の出座した奉行職列席の会所にて、3名の死罪が決定されてしまう。

 

格別の恩情をもって、牢屋にての切腹

 

弘瀬健太は死への覚悟が定まらない心の同様を残す遺言状を、子孫の家に残しているという。 だがその死に際は、最も剛胆な切腹であったという。 だが3人共が、この世に残した未練と無念さは、とてつもない思いだった。

 

哲馬の場合は死ぬことができずに、やもえず介錯の人間が刀を振るうこととなったのだが、その介錯人となった者は、切った時の衝撃で晩年まで顔に痙攣の痕が残っていたそうだ。 哲馬には、まだあどけない2歳になる娘がいたという。 桜

 

それぞれが辞世の句を残してはいるが、一番壮絶だと思ったのは、やはり収二郎のものだと思う。

 

百千度 生かへりつつ 恨みんと 思ふ心の 

   絶にける哉 恨報はんと思ふ人の多けれと 

                         今は巳ぬ

 

打ち首の覚悟が切腹となった為に、百度でも千度でも生き返って、呪う気持ちも失せてしまったのだが、 どうしてきれいさっぱり失せようか。 恨みがないと言う心の奥の根深い恨みが見るではないか。

 

収二郎はもう1つの 絶命詩 も残している。

しかもそれは自らの爪で血で、この世に残したものだった。

 

ここに書かれている説明文の通りに、当時遺族は墓碑に刻んで、子孫に伝え残そうとしたが、藩庁の嫌疑を受けてやむなく碑を倒し、文字を削ったりもしたのだが、何度上から命令が下ったても、遺族はこれを残そうと努力したのだった。 ショボーン

 

当時武市半平太が容堂に対して助命嘆願した時の報告書さえも、引き破られたのだという。 大目付の中には、収二郎や弘瀬などの死を惜しむ声もあったとか・・・・・。

 

これを境に益々勤王党への弾圧は、強まっていく事となるのだ。

 

身分が下士であっても、その忠義心は上士に負けないほどだっただけなのに、やっと自分達の事が認められそうになってきた。 そうした背景が、彼らを思い上がった行動に向かわせたのかもしれない。

 

高知の城下が勤王党員に対して、厳しい取締をしていく中でも、佐川の領主であり山内一豊公について、土佐国入りをした古参な深尾家では、その取締ももっと緩やかで、高知の山内家を欺くような事もやっていた。 せめて容堂が、もう少し理解ある人だったら、勤王党のメンバー達も救われたかもしれない。 叫び

 

収二郎の墓は、坂本龍馬の一家の墓がある一角にある。

 

初めて訪ねた時には、これがなかなか探し当てられなくて、とても困ったものだったが、今なら誰よりも真っ直ぐそこへ行き着くことができる。

土が赤かったという事から名が付いたという 丹茶山 ・・・・・・

本当の姿は今はそこにない。 もう随分前の話しだが、この辺りを住宅地にしたいと買い取った業者が、むやみやたらに壊していった。

当時ニュースで、その様子とそれに反対する人間達の事を、見た記憶はあるんだけれど、高知の人間は龍馬の事を知らなすぎた。

 

それ故に、反対した人々の多くは、坂本家の墓所の取り壊しを知った全国のファン達だったのだ。 土佐人としては申し訳ない事だ。

 

その頃の無残な山の切り崩し姿に、後に写真を見て心が痛くなった。

反対派が高知市に申し入れて、丹茶山の坂本家と他に眠る歴史人達の重要性を説いて回って、業者から手を引かせて新たに墓所を整備して、現在の姿に至っているのである。

 

幕末土佐と龍馬を取り巻いた歴史が、ここには沢山眠っている。

 

今は身分も何も関係なくね。ウインク

 

平井収二郎の家の跡も、ここからすぐの場所にあるが、四万十市から高知市へと走る線路沿いからも、この邸宅跡の碑を見ることもできるが、今はすぐ脇に人の家が建っていて、あるのはこの碑だけだ。

 

そして私は大河ドラマを通じて、この人の真の姿を知りたくなり、いろんな事を調べて高知での展示会場へも足を向けた。

覚えているだろうか・・・・・大河ドラマ「龍馬伝」にて、平井収二郎を演じた役者を・・・・・・

 

丁度1週間前に、2時間半に渡る記者会見を開いて、世間の話題をさらい今尚、自身の問題以外でも意見や疑問などを、世間に投げかけている事柄。 発端は、この方のとった行動と口から出た嘘のせいだったんだが、問題はそれ以外にも大きくなっていって、未だ修復も終わりも結果さえ出ていない。ぼけー

 

 

 

 

 

その役を演じたのが 宮迫博之 さんだった。 彼はお笑いのセンスや司会者としての才能もあるが、役者としても表現力が豊かであり、当時びっくりした覚えがあった。 目

 

私が知る龍馬関連の仕事に就いている方が、収二郎のイメージが宮迫のせいで・・・・って、たいそうイメージが違いすぎると嘆いていたのを覚えているが、私は彼の演技でこの平井収二郎という人間を、真に知りたくなったのだ。 収二郎の妹は 加尾 といい・・・・・

 

龍馬の初恋の人として、ドラマでは高知市生まれの 広末涼子 が演じていた。 加尾は後に警視総監となる 西山志澄 (ゆきずみ) と一緒になり、西山家より養子として入り、切腹した収二郎の代わりに、代役を務めている。 加尾は龍馬の迎えを待っていたものの結局2人は手を取り合う事ができず。 晩年 「涙痕録」にて、その事を・・・・・・・

「女子一生の痛恨」 と記している。

 

兄収二郎を失った加尾に宛てた、彼女を思う龍馬からの手紙が残されているが、それは龍馬と親密な兄妹との関係を察する事ができるものだ。

 

収二郎は、番組の中では無骨で妹加尾の龍馬に対する思いを、猛反対するような荒い性格にも見えたのだが、実はとても妹思い家族思いの強い兄で、加尾とのやりとりとした歌にも、その言葉一つひとつに彼の優しさがにじみ出ている。 

 

 

頭も賢くて気持ちの優しい・・・・ちょっと確かに宮迫の演じた収二郎とは違う、面も沢山あるのに気づいたが、それは多分演出の出した答えだと思っているし、私は後にも先にも宮迫さんの収二郎しか知らないから、気づかせてくれてありがとうと言いたい気分だ。 (笑)

 

だから今回の事件が出た時も、記者会見の模様を見た時も、なんだか平井収二郎と重なるものを見てしまってね。 彼が最初についた嘘の言葉は、とうてい許される事ではないし、人の良さが招いた事でもあると思っているが、できればこれかからも頑張って欲しい逸材だと思う。

・・・・・・収二郎のように志半ばにして、消えてしまうのは勿体無いと思っているのね。上差し

 

とにかく一日も早く事がはっきりとして、決着が見えてくることを祈るばかりだ。

 

 

龍馬の事を扱ったドラマでも映画でも、龍馬伝のように事細かに土佐勤王党の仲間たちの事を、披露してくれた番組はなかった。

土佐の人間としては、龍馬だけでなくてこんな優れた人物の事も、知らないままに済んでしまうところであった。 (笑)汗

 

アンチな私は、収二郎の事が好きである。

 

う~~んとね、中岡慎太郎に次いでかな・・・・・・(´▽`*)アハハ

 

自分・前にも、平井収二郎の事を書いた事があったが、宮迫さんたちの事件で、再び思い出して書いてみた。 前の記事よりは、かなり簡素化してる気もするけどね。 にひひ汗

 

 

ちなみに龍馬伝にて、収二郎をキツイ拷問にかけていた人間。

後藤象二郎 を演じていたのは、昨年の大河ドラマ「西郷どん」に出ていた薩摩の国父こと 青木崇高 さんだった。

去年の大河を見る度に、象二郎と国父が重なって、西郷どんに対する陰険な眼差しや言葉に、思い出し笑いをしていたものだった。(笑)

 

 

そういえば・・・・・今回武市半平太の名前を連呼するように書いていたら、どうやら土佐国の土佐おもてなし勤王党にて、武市先生を演じていた方が、再び芸能活動を再開・・・・なんてニュースも飛び込んできた。

 

通称 もて勤 の武市半平太さんは、いつも私を見送ってくれる時に、深々と頭を下げて気持ちよくお見送りしてくれたけど、先生の久しぶりのお顔を拝見したら、なんか当時が甦ってきたよ。 \(^^@)/

もう一度、土佐勤王党に血判状を出しますか。 (笑) グー

そういえば龍馬伝で、武市先生を演じた 大森南朋 さんは、今ドラマ主演してますね。 なんか凄いいろいろとリンクしてくるわぁ~~。

 

 

注: 「土佐おもてなし勤王党」 とは、高知県の観光や文化を世に広める為に、幕末の歴史人の姿を借りて蘇ったという。 6人グループで歌い踊って芝居もできた一般公募で集まったPR隊でした。