時を越えた叫び✽サンソン家の人々とバタンテール | サンドリヨンのブログ☆正統派歴女いざ参る!

サンドリヨンのブログ☆正統派歴女いざ参る!

土佐の脱藩歴女が、いろんな歴史の旅と日常を綴ります。
 過去ログの(1564nhのブログ)では、本当に沢山の歴史を公開しています! 自分で書いておいて改めてへぇ~・・・なブログも、お時間ありましたら見てみて・・・・!!

「僕は義務にも正当性にも、意義を唱えることはしません。」

「でも、いつまでたっても、僕はこの仕事を担える勇気は湧いてこないでしょう。」 これは、 アンリークレマン という男が言ったと言われる言葉。  アンリークレマンは、何故こんな言葉を投げかけたのでしょうか。 この時の相手は、彼の祖母だったという。

 

その祖母は、彼が18歳の頃に亡くなる。

 

祖母の夫は シャルル・アンリ・サンソン サンソン家の4代目だった。

18世紀後半・・・・アンリはフランス国王であるルイ十六世とも、旧知の仲だった。 ルイ十六世を心から崇拝し、熱心な王家忠誠の心を持つ人物だった。 だが、ある日・・・・悪夢が彼を追い詰めて行く。

 

サンソン家は医業を副業としていた。 そう・・・・副業だ・・・・・・

その彼の家の本業はと言うと、代々受け継いできた処刑人の家柄だったのだ。 フランス革命直前の頃、この世に ギロチン が登場する。 少ない賃金で、その製作をおこなったのは、ドイツ人の男だった。

 

ギロチンが誕生する前までは、もっぱら処刑と言えば・・・・・

八つ裂き 車裂き 斬首 絞首刑 といったもので、随分前に紹介したこともあるが、その時の罪人の長く続く苦痛を和らげる為に、体の生理機能に詳しい者。 つまりは人体の作りなどに詳しい医師などが、処刑人に選ばれる事があった。

 

1757年1月5日

ルイ十五世が、トリアノンへ行こうと宮殿を出た。 衛兵の間の下で、馬車が待っている外階段のところで、王はダミアンという男の襲撃にあう。 王の警護に当たっていた多くの者たちを交わして、ダミアンは王の後方に回って、脇腹の左側の心臓から遠くないところを刺した。

 

凶器はポケットナイフ・・・・・・

王が刺されたと叫び声があがると、衛兵はすぐさま逃げるダミアンの後を追った。 幸い服の厚みで大事には至らず、ダミアンは捕まり処刑される間での長い間・・・・衣服を剥がれて57日間も、ザラザラとした金属のベッドに縛り付けられ、その後のダミアンへの処刑の模様は、おぞましいくらいの恐ろしいものだった。

 

ダミアンもあらゆる処刑における罰を受けているが、最終的には5時間にも渡る手足を四方に引っ張られるという刑に処せられた。

 

こうした時に、苦痛を和らげる為に・・・・・

処刑人は手足の関節を切ったりもしたのだ。 それにはその手に詳しい人間でないと無理な作業だった。 

 

サンソン家の当主達は、そんな処刑の傍ら・・・・・医者として、人の命を救うこともやっていた。 その行為が、実はサンソン家の歴代当主の精神的な大きな救いともなっていたのだ。 だが、街の人々は・・・・・

処刑人 としてのイメージが強くて、家では怪しい妖術などにて、人々に何かしているのではと、あらぬ疑いもかけたりもした。

サンソン家では、貴族も貧しい民も関係なく医療を施し、決して診ることにノーとは言わなかった。

 

ところで・・・・・、このギロチンを使用する事に、ルイ十六世自らが関わっていたってご存知だろうか。 後に自らの首をも落としてしまう・・・・

そんな恐ろしい機械の開発にも、彼は意見を述べて・・・・

刃の角度を指摘して、首を切りやすい事を論じている。

 

その時には、自らと王妃の首・・・・そして妹や多くの人々の血を、短期間に落としてしまう恐ろしい機械となろうとは、想像もしてなかっただろうが、運命とは皮肉なものだと思う。

 

アンリ達サンソン家の人間は、ギロチンが使用されても自らが、その操作を行うことはまれだった。 傍に立っていたとしても、その操作を行うのは、殆どが助手と呼ばれた人間の仕事だった。

当主となった人間が、まだ幼い子供であった場合は、大人たちが代わりを務めた。 それでも、時に思い入れのある人物や、罪人にお願いされると、自らが操作したという記録もある。

 

4代目で15歳にて処刑人となったシャルル・アンリ・サンソンは、友でもあった国王ルイ十六世の時には、自らが手をかけた・・・・・

だが、王妃の時には助手にさせたとある。 それでも、2人に対しての辛く苦しい思いは同じだった。 見つかれば間違いなく処刑されるであろう中で、国王の命日には秘密でミサをあげている。 それは1840年まで続き、47年間に渡ってミサを続けていた事になる。クローバー

 

自分の仕事は社会の為だと、何度も何度も自分に言い聞かせてきた。

それでも革命時には、恐怖政治で大量の処刑を請け負った。

その中には、罪もない人々もいて、そうした現実に耐えられなくなり、手が震えて止まらなくなり、ノイローゼにも陥った。

それでも仕事を続けるしかなくて、そんな夫を妻マリーは支え彼女も

修羅場を共にし、少しの事でさえ動じなくなっていった。 ギロチンの登場で、処刑がスムーズに進められるようになり、時間短縮にも繋がったことで、彼は1年数ヶ月で、2千7百人以上の処刑を成し遂げていた。

 

その中には、かつて恋人だったルイ十五世の寵妃 デュ・バリー夫人もいたのだ。 デュ・バリーは最後の最後まで懇願し、助けてくれと泣き叫んだ。 アンリは後にこう書いている。

 

「もし、皆がデュ・バリーのように助けてくれと泣き叫んでいたら、こんな恐ろしい事は起こらなかったかもしれない。」

 

誰もが死に直面し、それを見るものも刑に処される方も、皆麻痺していた時代。 見世物のように処刑を楽しむやからの中にも、まっとうな心を持つ人間もいた。 だが、時代が狂った方向へと行かざるを得なかったのだ。 4代目のアンリは、若い頃身分を隠してアバンチュールを楽しむような男だった。 その中で、パリの街でデュ・バリーと出会ったのだ。

 

サンソン家に残る処刑人としての最後の当主が残した 回想録 があるが、そこには信じがたい事が綴られていた。

 

初代 シャルル・サンソン・ド・ロンヴァル が処刑人となったのは、

1688年のこと・・・・・

 

実は彼は、初めから処刑人であったのではなかった。

 

初代サンソンは、ある日1人の娘と恋に落ちた。 そしてその娘の家こそが、処刑人をしていた家であり、彼は愛を貫くために自ら処刑人となったのだった。 そしてその子孫たちを、呪われた一族にしてしまった。

その贖罪の念もあったのか・・・彼は手記を残した。

 

最後の当主がその手記を見るのは、まだ先の事・・・・・・

 

元々処刑人などという仕事は、生まれ持った家柄というよりも、国王が自ら指名して始まる事があるという。 サンソンの相手の娘の家は、そうした不幸を背をっていたのだろうか。

 

4代目の当主が亡くなったのは、6代目となる最後の当主アンリークレマンが7歳の時だった。 6代目は17歳で結婚・・・・・

妻となった人は、サンソン家を継ぐことを勧めたが、アンリの方はまだ迷いがあり、その意志を父親に伝えてはいなかった。 後に2人の娘と息子が生まれたが、息子は亡くなり娘たちは良い相手と結婚した。

 

ムッシュー・ド・パリ これがサンソン家の呼び名だった。

彼らの仕事である処刑人としての肩書きは、いつの世も秘密裏にされていた。 なのでまだ幼い内の子供たちが、自らの運命を知ることもなかったのだ。

 

4代目の場合は15で継ぐまで、家業は隠されていた。

 

6代目の時にも、幼い頃にはパリ郊外に祖母と移り住み。

そこから小学校へと通っていた。 そして中学になる頃には、一度自宅に戻るのだが、初めてできた友達を、森の奥にあった家に招いた事で、彼は本当の事を知らされて友を失う。

 

招かれた友達の方が先に気づき・・・・・

家を後にしてからは、学校でも彼を避けるようになっていた。 その事が真実を知るきっかけとなり、少年の心を傷つける事にもなった。

その頃祖母は、死刑制度の有用性について語り、社会正義を守る為に貢献してきたと、先祖達の事を語って聞かせたのだ。

 

40歳を過ぎて、6代目は自由に生きたいと思うようになる。

女や賭博に手を出して、多額の借金をこしらえてしまった彼は、家にあるものを売っては金に変えていた。 そしてなんと最後はギロチンまで私財として売ることに・・・・・。 そんな中、死刑執行命令書 が届く。

売ってしまったギロチンを買い戻す為に、法務大臣に事情を話して、金を借りて職務を果たした。 1847年3月18日だった・・・・・

 

夕方・・・・法務大臣より執行人を罷免するとの通知が届いた。

彼は自分がその任務から解かれた事を知ると、一族にのしかかってきた宿命が、ここに終わったという事を悟った。

 

最後はなんともあっけない現実だったが、彼は洗面器と水をすぐさま持ってこさせて、今後この手が同胞の血で汚れることがないようにと、神の前においてと厳粛な儀式を行った。

 

それは先祖達の肖像画の前だった。

 

老いた母親はそれを知らされると、祝福されてあれと優しく彼を見た。

 

そうして彼は、先祖代々の思いを胸に、サンソン家の回想録を書いて、想いを伝えようとした。 6代目もそれまでの当主も、死刑には反対の思いだった。 6代目アンリは、フランス革命百周年の年・・・・・

1889年1月に死亡した。 89歳の長寿だった・・・・

 

アンリたちサンソン家の人々が、苦しい胸の内を隠して、特に革命の頃には多くの人々の命を奪ってきた事に、どうぞこうした行いを無くしてほしいと願い続けたのだが、ここにもう1人同じ思いに駆られた人がいた。 その男は名を ロベール・バダンテール という。

 

1928年生まれの弁護士にして、パリ大学法学部名誉教授という肩書きを持つ。その日彼は殺人を犯していない依頼者が、処刑される姿を見ていた。 驚くなかれ・・・・フランスにおいては、ギロチンというものが20世紀の世の中まで使われていたのだ。 しかもそれは・・・・・

1981年 の年までだ。 革命の直前に生まれた処刑の為の道具が、近代の20世紀も後半になる頃まで、使われていたんだよ。

 

 

依頼人の裁判には、自らも関わっていたが、アメリカなどは陪審団が

有罪無罪を決めるけれど、フランスでは裁判官も評決に加わる。

無罪にするには 破棄申し立て というものを大統領に出して、大統領の恩赦に望みをかけるしかないのだ。

 

その望みは、いつもその殆どが、儚い望みとなって消えていた。

 

フランスでは大統領選が行われて、ミッテランが名乗りをあげていた。

彼は当選すれば死刑制度を廃止する事を議会へと、テレビ演説で人々に約束したのだ。 そして見事ミッテランは当選した。

私もよく知る大統領だけれど、彼が死刑制度廃止となった時の大統領だったとは知らなかった。

 

 ロベール・バダンテールは、1972年~81年まで弁護士を務めた。

 

そして満を期して ミッテラン政権 で、1981年6月に法務大臣になり、法案を議会へ出す栄誉を得る事となる。

同じ年の 10月 ・・・・・。 二世紀にも渡ってフランスの死刑を担ってきた。 その象徴ともなってきたギロチンが、博物館へと送られた。

その20年後には、これらはヨーロッパの法となり、全ての死刑制度は姿を消すこととなった。

 

国連加盟国187ヵ国中、108ヵ国が死刑制度廃止となる中で、アメリカや中国・イラン・サウジなどでは未だ続行されていて、日本もアメリカのように大量に行ってはいないが、未だその制度を残している国の

1つだ。 数十年もの間、死を待つ日々は拷問だとした意見もある。

 

犯した罪は罪だから、当然償うべきなのだろうが、死刑制度をなくした国では、今いかにしてそうした問題を裁いているのだろうか?

難しい事だが、人が人を裁いて死に追いやるといった事は、私にもなんともまだ答えられない。 個人としてはまだ判断ができないのだ。

でも、死刑などというものは、あっていいものとも思えない・・・・・

 

一人の男が一人の女を愛した事から、その一族の長い苦悩の歴史が始まり、そしてそれを終わらせた最後の人間がいた。

 

時代を越えて、やはり真っ向から反対した男が、自ら法務大臣となって

死刑制度を廃止に追い込んだ。

 

2001年ストラスブールにて、第一回死刑廃止世界大会が行われた。そう、まだ2000年代に入ってからのお話し・・・・。

日本はこれからどう動くんだろうか。

 

 

 

 

 

 

参考: そして死刑は廃止された ロベール・バダンテール 

                          (訳) 藤田真利子 作品社

    フランス反骨変人列伝  安達正勝 集英社新書 他