幕末を生きた女たち 村山たか 悲しい人生に隠された直弼との愛 | サンドリヨンのブログ☆正統派歴女いざ参る!

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皆さんは、 村山たか という幕末を生きた女性をご存知だろうか? 彼女にはもう1つ名前があって、別名を 可寿江 (かずえ) とも言うが、一見この地味な名前の女性が、いったいどうした人生を送ったのか・・・・・。

 

 

 

彼女の生まれは、いろいろと語られていて、実際のところ私にもよくわかりませんでした。 父母の事もあまりちゃんとした事柄が、残されてもいないようで、強いて言えば・・・・。 彼女の育ったのが、近江国・・・・

現在の滋賀県にある 多賀神社 であったという事。

 

幕末にはまだ寺社が一緒に存在していたような時代で、人によればその神社の中の寺の坊主とできてしまった女性が生んだ子とか、寺の

坊主と芸妓との間にできた子とか・・・・、そしてまたその後も、

多賀神社の神官に預けられて育ったとか・・・・。

村山 という寺侍に、生まれてすぐ預けられて育ったとか・・・・・・。

 

まぁ~、苗字が「村山」なのだから、後者の方が正しいのかもしれないが、どの例をとっても誰の意見を読んでも、「たか」という女性は生まれ落ちてから、複雑な生い立ちを背負って生きていたようだ。

 

 

彼女が18歳になった頃、当時の彦根藩主であった・・・・・

井伊直亮 (なおあきら) の元へ侍女として上がったが、彼女の若くて美しく・・・・幼い頃より芸事などを仕込まれて生きてきた魅力に、いつしか直亮から愛されたとも聞きます。

 

しかしその後21歳にて、彼女は城を出て京へ向かい。

京の町にて、芸妓をしていました。 その頃馴染みとなっていた客の

1人であったとある寺の 住職 との子を身ごもってしまい。 そのまま寺侍であった 多田源左衛門 に彼女は譲り渡されて、あるいは引き取られる事となって、お腹の子供が生まれると、結局偽りの愛の無い夫婦仲は続かず。 子供と共に離縁されて、彼女は故郷である彦根へと戻る事となるのである。

 

この時の子供の父親というのも、いろいろと言われていて、その中にはあの 金閣寺 の僧だという話しもある。 一体彼女の本当の事って何なんでしょうねぇ~~。 ┐('~`;)┌

 

昔は生年月日も没年も、その名前さえ記録に残されないのが当たり前だった女性の歴史だけに、その中である程度わかっているという事は、まだ恵まれているのかもしれない。 確か彼女は、生まれの年もわかっていたと思う。

 

 

たかは、京で芸妓をしている時に、その名前を 可寿江 と名乗ったと言います。 彦根に戻った彼女は、18歳で世話になった井伊直亮の弟である 鉄三郎 こと、後の 井伊直弼 と再会します。

 

再会というのは、直亮の元にいた頃には、既に一度は出会っていたであろうという事で・・・・・。 (#^.^#) その頃後の直弼こと鉄三郎は、家を継ぐという身分ではなくて、城の片隅にある 埋木舎 (うもれぎのや) という離れにて、和歌や国学 芸事など、様々な事を学びながら日々を暮らしていました。 兄は養子も迎えていたので、果てなく・・・

鉄三郎には日陰の身という暮らししか約束されていませんでした。

 

可寿江がたかとして、城に入った頃・・・・彼はまだ14,5歳の少年でした。 でも今二人が再会した頃には、鉄三郎は25歳の青年に・・・・・

たかは30歳という色香漂う女性へとなっていました。

 

可寿江は芸妓で人気があっただけに、歳はいってもまだまだ若々しく、美しい女性で・・・・これまで培ってきた教養にて、二人が急接近していくのに、さほど時間もかからなかったのではと思います。 

いつしか二人は情を交わし、彼女は鉄三郎の子供を身ごもったとも言いますが、そこんところもはっきりとした事はわからなくて、・・・・・

1つだけ言える事といえば、その頃二人の仲は藩の人間に反感をかっていたって事。

 

2人はこの頃突然その仲を終わらせています。

 

2011年 平成23年 に京都東山にある井伊美術館 にて見つかった・・・。 1842年 可寿江ことたかへ宛てた直弼の手紙では、藩の反対にあい会えない事の辛さを抱えた直弼の想いが、伝わって来るような文面となっているそうです。

 

弘化3年 1846年 ・・・・・

兄・直亮の養子となっていた後継も病死でこの世を去り、鉄三郎は

歴史に名を残す「井伊直弼」となって、彦根藩を継ぐ身となり・・・・

この年江戸へと赴きます。 そして、たかはどうしたかと言うと、また

一度戻っていた多賀神社に、参拝に訪れていたという直弼の国学の師でもあったという・・・・ 長野主膳義言 (しゅぜんよしとき) という人物と知り合い、たかと言葉を交わしていく内に、彼女の置かれてた悲しい人生を知り、それに同情したのか・・・・。

 

主膳はたかといい仲となって、付き合い始めます。

 

ここでも実は、この長野主膳という男の事。 実は子供を身ごもった事で、自分の師でもあった主膳に、直弼自らが譲り渡したとも言われていますが、別ではこうして参拝している中で、二人が知り合ったともあり、そこんところはまたよくわからないのです。 付き合いがあったのか・・・それが、どの程度の関係だったのか・・・・。

 

ですが、確かにこの二人は、ある種の関係を結んだようでした。

 

たかの中にも、まだ直弼への想いがあったとも言われていて、それなのにこうして主膳に心を許してしまう。・・・・・そうゆう典型的な女性だったのでしょうね。 私の知ってる女性の中にも、こうゆう女性がいますけど(´-∀-`) こういっちゃなんだが、私なら・・・・横道それることはないかと思う。 ( ˆmˆ )  実はこの頃、直弼に対してたかの父とも縁者ともいう人間が、たかとの関係をネタに、金をゆすり取るという行為をしていたとも言われていて、それを上手く間に入って収めたのが、この

長野主膳だとも言われているのです。

 

そういう関係もあったのか・・・・、ともかく二人はこの後仲のよい関係となり、その後とんでもない事になっていくのです。

 

 

井伊直弼は、江戸に住まいを移してからは、あれよあれよと出世していき、遂には 大老 という将軍につぐ偉い身分となっていきました。

そして、様々な政治に関わることとなり、後に言われることとなる。

 

安政の大獄 という事柄も、やってのけたのです。

 

この「安政の大獄」では、多くの尊皇攘夷派の人々から恨みをかうこととなり、 安政7年 1860年 の3月3日・・・・・

雪のしんしんと降る日。 恒例の挨拶への登城途中にて、彼は多くの脱藩水戸浪士と薩摩浪士1名に襲われて、その命を落とす事となりました。 この時の様子を目撃した杵築藩の記録は、前に紹介したので記憶にある方もいるかと思いますが、かなり残忍な出来事だったようです。 

 

さて、この時惨殺された井伊直弼への恨みは、天誅 となってその後京都にいた長野主膳とたかの身にも降りかかってくる事になる。

 

たか達は、実は江戸にて政治に関わる直弼の為に、京の町中にて彼の手足となって、幕府に牙をむく人間達の事や事柄を、見張っていたと言います。 そうした事柄を、直弼に秘密裏に知らせる事で、

吉田松陰 などの多くの人間達が、安政の大獄にて裁かれて死んでいったともあり、スパイ的な活動をしていたと言われた二人は、直弼が暗殺された後・・・・・・

 

たかは隠れ家としていた借家にて、既に布団の中にて休んでいたところを、土佐と長州藩を中心とした尊皇攘夷派約20名ほどの男どもに襲撃されて、連れ去られてしまう。 

文久2年 1862年 11月14日 ・・・・・・ 

 

連れ去った者達の言い訳は、たかが安政の大獄の際に、長野主膳の下で反幕派の捕縛に協力していた。 これが 罪状 だった・・・・・

 

床から無理やり連れ出されたたかは、鴨川河原に引き立てられたが、

女性だったという事もあり、殺されることはなくて、棒杭に縛りつけられて、 生き晒し という行為が行われ。、この後・・・・随分昔にたかが産んでいた子供である男子。 この頃には、主膳の門下となっていた 帯刀 という息子も、土佐の 岡田以蔵 らに惨殺されて、その首はたかの側に晒されて、共に長い時間を過ごす事となったのです。

 

 

この子の父親は、直弼ではなくて・・・・・

芸妓として可寿江として生きていた頃、馴染みとなっていた住職との間にできた子供であり、寺侍の多田源左衛門と一緒になった時に生まれた子供でした。  そして、最後に共に活動していたという主膳は、

相当尊皇攘夷派の人間達に敵視されていたようで、彼と共に活動していた 島田左近 (九条家家士) は、文久2年 1862年 の

7月20日・・・・、3人の武士が二条にあった彼の妾宅の家に踏み込み。 島田は外へ逃げ出したが、一の舟入付近で殺害されて、首のない遺体は21日の朝に、青竹に括りつけられて、首は23日の朝発見される事となった。

 

当時は必ずそうした遺体の側には、罪状を書いた紙を貼り出したり

持たせたりしたものだが、添えられた罪状書きには、主膳と共に 

新幕派 として 「大奸賊」 であったと指摘されていた。 

 

安政の大獄で、反幕派を取締・・・・・。 その首が晒された時には、そこに 「天誅」 の文字があり、これが京都における最初の天誅事件となったとも言われている。

 

罪状を書いた 斬奸状 (ざんかんじょう) ともいわれる掲げものは、罪状書きと共にセットとなって、天誅を表すものとなっていく。

その天誅のターゲットとなる人物は、初めはこうした幕府の政治に

反対する 反幕派 であったが、その内武士や浪士達を対象としていた刃は、商人や女にまで及んでいき。 それらはたかのような生き晒しという行為で扱われたが、その後は天誅で得た人の腕や耳を、・・・・・・・・

 

新幕派となる公家の屋敷などに、罪状書きと共に投じるなど、その

行為は段々とエスカレートしていき、復讐は脅迫へとなって・・・・

公家自体も殺害される事が出てくるのである。

 

京都の町の治安は、悪化していくばかりだった。

 

さて・・・・たかや島田と共に動いていた長野主膳という男。

実は彼は元々彦根の人間ではなかった。 主膳の生い立ちもいまいち謎なのだが、どうやら彼は 伊勢の国 の出だという事だ。 

天保12年 1841年には、 滝野次郎左衛門 という人の妹を、妻としているとあるから・・・・・。 たかが出会った頃にも、彼は

独身ではなかったんだろうと思う。 結婚後は夫婦で各地を転々としていて、近江の国にて国学や和歌などを教えている頃、彼は若き直弼を訪ねている。

 

ひと目で主膳を気に入った直弼は、彼と親交を深めていき。 

それと同時に主膳は公家である 九条家 にも仕える事となる。

主膳は京で井伊家と別格な関係を持つ九条家に仕えることで、公家との交際を広め・・・・・、直弼が藩主となると彦根藩の藩校。

弘道館 の国学方となっている。

 

 

直弼死後・・・・・、それでも彼は彦根藩での藩政に携わる事となるのだが、直弼の次の藩主となった 井伊直憲 からは疎まれていて、

文久2年 1862年 島津久光 上京による・・・・・・・

「文久の改革」 にて、井伊家が問罪されると、藩命において

斬首される事となり、48歳の短い生涯を終えた。

 

大河ドラマ 「西郷どん」 では、そんな井伊直弼の隣にいる主膳を、

ドラマ 「相棒」でも有名なこちらの方が演じていた。

 

 

実はこの方・・・・、ただ疎まれて藩命で斬首されたのではなくて、

その・・・・井伊直弼死後の彦根藩の生き残りをかけた・・・・責任を背負わされての斬首だったんだ。

 

大老であった直弼が、 桜田門外の変 にて殺害されてしまうと、幕府はそれまでの直弼の勝手な振る舞いに、彦根藩から10万石の減封と藩祖 直政 以来の「京都守護」の地位を、剥奪してしまったのだ。

 

その事を重く見た藩主・直憲達は、藩をあげてそこへ陥った全ての

責任を主膳に背負わせて、その場を上手く乗り切り・・・・・

その後は政局にも上手く対応して、いち早く新政府軍に加わる事に

成功したのである。 つまり 捨て駒 とされてしまったのだ・・・・・

 

彼がまだ直弼と知り合った頃。 九条家の中にまで入り込んで、多くの公家たちと交流を持ち・・・・・上手く振舞っていたのは、もしやひとえにこれ全て井伊直弼の政治に協力する為だったのではとも思う。

主膳という人は、相当頭の切れる賢い人間だったのだろう・・・・・。

たかは、芸妓をやっていたけれど、元々幼い頃よりそうした事に役立つような踊りや和歌などを、教え込まれた人間だった。

 

これだとて、上手く使えば・・・・・怪しまれずに、当時の公家たちの中

へと入り込める。 そしてそれを使って、情報などを集める事さえできたはず・・・・・。 これらは全て、長野主膳という人物の策略ではなかったのかと、私は思ってしまった・・・・・。 だとしたら、たかは最後まで・・・・

 

身分の偉い人物たちのいいように使われた女のようにも思えてくる。

 

直弼の兄・直亮に始まり、寺の住職や多田や主膳のような男・・・・・・

 

ただそれでも、当時の手紙が語るところを見れば、直弼との出会いだけは、・・・・・ふたりの関係と時間だけは、真実彼女の幸せな時間だったのかもしれない・・・・。 いや、そうであって欲しいと思うよ。

 

 

たか本人は、生き晒しを受けた3日3晩後、一乗村の寺の尼僧に手を差し伸べられて、彼女もまた頭を剃り尼として生きる決心をする。

 

今でも彼女がいたという 金福寺 というところには、彼女の晒された時の姿を表した肖像画と、井伊直弼直筆の・・・・彼女が大切にしていたという和歌の掛け軸が、残されているとのことだった。

 

そして生涯息子・帯刀と直弼に手を合わせながら生きて、67歳まで生きたという事だ。 1876年 明治9年9月30日 だった。

 

そして彼女の名前は、日本史に残る今で言う工作員的な存在の・・・・

第一号として、歴史に名を残すこととなったのだ。