いざなぎ流の里 ~千年の歴史を伝承する場所~ | サンドリヨンのブログ☆正統派歴女いざ参る!

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土佐の脱藩歴女が、いろんな歴史の旅と日常を綴ります。
 過去ログの(1564nhのブログ)では、本当に沢山の歴史を公開しています! 自分で書いておいて改めてへぇ~・・・なブログも、お時間ありましたら見てみて・・・・!!

「神のそだち、どこかゆらくたづぬれば、

          こけの白山 滝の麓にあるろう」

                            神送りの祭文より・・・・・

 

私が山間部の田舎の生まれだというと、ある大人も大人な女子に、

「あ~~、田舎なんでしょ。」 と、さも凄い山奥の田舎の如き言い方をされた覚えがある。・・・・・・・まっ、確かに・・・・・

 

田舎は田舎さ! だけど、県庁所在地から車で片道1時間・・・・・これぐらいさほどど田舎とは思わのだがね。 

                          BY:田舎のプライド!(笑)

高知県は全国でもトップな森林県で、県の84%が森林とされていて 高知市でも、海と山に挟まれていりから、30分走らなくても山に入ってしまう。 その高知県東部の山間部、空港がある海沿いから山手にかけての南北70キロの流れがある 物部川 ・・・・・間違っても、これを もののべ とは呼ばないでよ。 も・の・べ だからね・・・・・・

 

それでもやっぱり古代・物部氏 (もののべし) の支族が、この川の下流域に住居を構えていたことから、 いつしか「物部川」と呼ぶようになったとも聞く。 その川の上流にある 物部村 (ものべむら) と言われた場所。 2つの村が合併して、昭和31年にこの名前になったと聞く。

村は村でも広大で、その中心部となっていた○○というところが、私の生まれ育った場所だった。

 

 

その中心部から車を走らせること数十分・・・・・・

今回の いざなぎ流 の里へ着く。 もちろん私が育った町にも、いざなぎ流の祭事はあったが、これを執り行える方が、町にいるのかどうか? ただ・・・・私がまだ子供の頃に、よく遊んでいた神社の近所に、どうもうちの父方の伯母が住んでいて、その方がやはり祭事を行うことができたようだった。 何度か見かけたけれど、私は親戚とも知らないで、小学校高学年の頃に、亡くなったと聞いている。

 

いざなぎ流の説明をしましょう。 いざなぎ流の いざなぎ とは、皆さんがよく知る イザナギノミコト とは違って、「いざなぎ様・・・

いざなぎ太夫」と呼ばれる。 実は天竺の祈祷者の事を指すんだそうです。

 

太夫 の始祖は 天中姫宮 という幼女で、彼女は日本国が出来た頃の「福島」という島にビジャリ国王というのがいて、その御子・・・

ミョウボン大王の天中姫宮として生まれました。 7歳になると、経文の修行を始めた姫宮は、「博士」 (ハカショ) になるべく最初の修行である。 「法華経」から習得にかかりました。

 

これがいざなぎ流を司る祭事を行うことが出来る「太夫」というものの始まりだといいます。 実際地元なのに、よくわからない事だらけ・・・

そう、このいざなぎ流というものの起源とされるものも、よくわからないのです。 

 

 

お隣徳島県との境にも近い物部周辺には、有名な 剣山 や ・・・・・ 

山嶺 (さんれい) があり、御在所山などは古来修験の山と知られていた。 その山頂には土地に伝わる平家落人伝説の主人公でもある

安徳天皇と平 清盛の弟・教盛 (のりもり) を合祀する神社もあり、標高の高い山々の中にある物部は、その修験道に平家伝説が習合した独特の伝承も残り、中には女人禁制で肉類などを持ち込み厳禁な山もあります。

 

古い時代の陰陽道 修験道 仏教 神道 の混ざった民間信仰。

物部と呼ばれた集落一体にて、昔から大切に受け継いできた。 そんな貴重な信仰だということでした。 信仰だからといって、朝から晩まで鐘や太鼓を打ち鳴らすわけでもなくて、経文を唱えてどこかへ勧誘に行くわけでもない。 そこだけに伝えられた口伝えであり、太夫から太夫へと受け継がれてきた秘儀のようなものなのです。

 

だからうちの家は、特別な宗教などを信心しているわけでもないし、何かを信心深く祈る人がいても、それとこれは違うというような民間信仰なんです。 例えば・・・・日本では昔々、山には山の 川には川の とそれぞれに自然界にも神様がいると信じられてきました。 そうゆう事をとても大切にしていて、今でも田舎に帰ると道すがら・・・・・

 

事故や災難避けの為なのか、山の登り口や道沿いに白い半紙を器用に切った 御幣 (ごへい) なるものが、立てられているのを見かける。 だから太夫は祭事の1つとして、山で捉えた動物の霊の供養を山で行ったり。 家を建てる時には、その場所を清める祭事をやったり、これら普通に神主でもと思われるかもしれないが、独特の信仰ゆえに神主以外でもやってくれるのですよ。 田舎ですから太夫だけでは食べていけないので、皆何か他に仕事を持っていて、そちらの方が今では本業となっている。

 

 

こうした書籍を、いくつか大きな書店で見かけることもあるが、どれもとんでもなく高いのだ。 (°д°) この本でも・・・・・・

 

 

見えるかな・・・・¥7、000円+消費税 なのであ~る。

 

安くても3、000円前後とか・・・・、それ以下のものを私は見たことがない!だから1冊欲しくても、地元なのになかなか手が出せずに、図書館で借りたりもするんだよ。(´▽`*)アハハ

 

内容は私も子供の頃聞いたことがある。 近所や周辺に住む方の名前とか・・・・祭事の事柄とか・・・・・。 名前を見て、あ~~こうゆう人いたよね・・・・みたいな。(笑) 跡を継げる人が少なくなり、皆高齢化した太夫さんばかりで、誰か外部の者でもと、今からもう20年前くらいに、ある1人の若い女性が立候補して、物部に通いながら太夫について、修行を積んでいいると、 地元テレビで紹介されたことがありました。

 

でも、その後の事はわかりません。 書籍にも出てこないとなると、やはりお辞めになったのかなとも思いますがね。 

 

 

これらの御幣を切るところからだって、慣れない者には大変だと思います。 そして口伝えに覚えるという呪文のような言葉とか・・・・・

よほどやる気のある人間でないと、大変だと思います。

別に結婚や恋愛がダメとかいうものではないが、高知の田舎で千年を超える歴史を持つ祭事を司るという事は、並大抵のものではないということなのです。

 

太夫は陰陽道のような 占い 的な事もします。 陰陽師の安倍晴明が 式神 を使うように、太夫は 式王子 という・・・・。 ついた

モノを強制的に、相手から離そうとする時 呪力 を使う時のものとして、これを武器として持ちます。

 

 

 

 

月を出し雨を止ます 日月祭 という祭事も司ります。 日が暮れると、頭に独特の飾りのついた笠を被り、数人で雨乞いならぬ雨を止ます祈祷をし始めます。 これには誰でも参加できるのですが、祭りは

一週間がかりの大祭となります。 こうした独特の場での祈祷内容での問い合わせは、世界中からも来るんだとか。 これはどうやら海外にも紹介された事が、発端となっているようですが、祈祷には「神祭り 病気 祈念 鎮め」など・・・・・・・

 

「今流行り?」 の不倫をしている夫の腰が、立たないようにしてくれ・・・・なんてのもあるそうですよ。(笑) もう随分昔は、呪詛も使う中で・・・・人も危めるような事柄もあったと聞いています。 でもこれは、よく言うでしょ。 「末代まで・・・・」 「7代まで・・・・」 祟る って、・・・・・いや冗談ではなくて、それくらいキツイものらしいです。 この人を危めてしまうような事柄は、いざなぎ流での祭文で、だからってやっていいものではないと、現代では禁止しとされているんだそうです。 呪詛と呪詛との掛け合いもあったなんて聞くと、ミステリー好きにはたまらんだろうが、そんな軽い気持ちでお願いするものでもないのです。 太夫さん達が言っています。

 

「原因不明の病は治るが、飲酒と不倫はダメ!」

 

まっ、ここで言う原因不明の病とは、陰陽道でいう何か憑き物がついたような事柄かと思いますけどね。

 

 

祭りには、こうした面を使うこともあります。

この面のデザインを見ていると、なんとも南の島や古代文明でも、みかけるような形をしていて、面白くもあります。 男や女 爺婆 あるいは猿とか喜怒哀楽を表したようなものまで、・・・・そしてこれらと似たような面を、九州でも見かけることがあります。 起源的にはこちらも謎なのですが、大分県の国東半島などの祭りでも、似たような面を使った祭りが残る地域があります。 これもかなり奇祭です。

 

いざなぎ流では、祭りの面は 面様 と言われていて、納箱という

木箱に納め・・・・「フレ」という屋根裏の物置に、普段は保管をしているのですが、それが何か音を立てるようなことでもあれば・・・・・

近い内に不幸が起こる前兆とされているのです。

 

仮面は呪力を持ち、面様と呼ばれて家を守る神であり。

毎年12月28日には、家の主人によって祭られ、十二面がひと揃いとされ、神祭りなどで12人の太夫がつけて、神楽を演じるのです。

こうした置物や保管は、ほぼ旧家での話しで、現在一般の家であっても、それは神棚の上だったりもします。 こうしたことも、住宅事情にもよるんだと思います。 ちなみに父方の家にはあったかもしれませんが、実家には神棚はありません。 (苦笑)

 

 

土地では、・・・・・

「天井裏に祀る天の神、御崎様は高位の神」 

言います。 「御崎(おんざき)様」と呼ばれる高位の神様とは、強い力を持った自然界の精霊でもあり、天と地の神 荒神などが、神格化されて土地を守る地主神であり自然神なのであるとある。

 

他にも、 守り替え祈祷 などもあり、これはあまり良くない星回りな運などを、良くする祈祷となっています。

 

 

平家一門は、屋島の合戦の間に先の未来を見通して、幼い安徳天の身代わりをたて、本物の安徳天を連れて、平 知盛他二位の尼以下

300名の人間が、四国の山脈を越えて・・・・・今の香川県・徳島県そして、高知県の越知町の横倉山へと落ち延びて行きました。 横倉についた頃には、その数は半分以下の100名にも足りませんでした。

 

徳島県と高知県の境に近い、 祖谷 (いや) という山深い山間部にて、しばらく暮らした後に・・・・・そこから山を伝って高知県の物部村へと入りました。 もちろん800年前は、そこは物部という名前ではありませんでしたけどね。

 

うちも平家・・・・、クラスメートにもその子孫と思われる方々がいました。 奥物部には小松さんの発祥と言われた 小松神社 があります。 平安時代中期には、既にここに鎮座していたと聞きます。御神体は  今は小松さん縁の神社として、全国から同じ苗字の方々が集い。 合同参拝を行っているんです。

 

子供の頃から、「小松」という苗字は・・・・・

ここ物部では、平家の落人だと聞かされてきました。 詳細はわかりませんが、殆どの方はそう聞いて育ったようです。 残念ながらうちは、その苗字ではありませんが、おかしなもので物部には、歴史上で聞くような名前が本当に多いと思ってるんですよ。 例えば・・・・・

 

戦国で言えば 「井伊」 「立花」 とか・・・・そんな数少ない苗字もあります。 今や世界でも有名な学習塾の 「公文」 あれも、じつは高知生まれの方が始めたと聞いてますが、やはり物部にも比較的多く残ります。 CMとかで聞く発音・・・・イントネーションがちと違いますけどね。

他にも某有名な歴史の人物の子孫だという方も・・・・

 

土佐は元々日本国内での 流刑地 の1つ・・・・・・

 

土佐の奥地であった山間部だけに、都から落ち延びたような話しも、聞いたりもします。 そうした末裔が、都からあるいはその周辺からのいろいろな歴史文化を、伝えてきたのかもしれません。

実際昔、山岳密教や民間信仰などを研究されている方とかが、京都や高野山と関連するラインが、物部まで続いている・・・・なんて事も、言っていました。

 

 

平家の落人達は、源氏の厳しい追ってから逃げる時に、・・・・・・

「川を渡さないでほしい」 と願い、水神様を祀ったといいます。

彼らが通った道筋には、ある集落では・・・・2キロの間に99もの・・・・・

トドロ様があったと言います。 トドロ とは、  を意味するとありますが、トドロ (轟) の 淵 (カマ) には、龍神が住んでいるから、どんなにそこに沢山の魚が住んでいようとも、決して採ってはいけないと、子供の頃より聞いていたけど、落人達はその龍神を祀って、結界を張りながら命懸けの逃避行をしていたんだろうと思います。

 

物部での伝承では、安徳天皇はここで亡くなったと言われていて、落ち延びて一時住んでいた場所は、 高板山 (こうのいたやま) という場所で、これは実は 皇のいた 場所として、後に「高板」と伝わったと言われています。 他にも、清盛の一族を夫に持った女性が、

物部の地まで噂を聞いて追いかけてきて、結局会えないままに病で亡くなったと、その二人の距離は、山を1つ隔てただけの距離だったといわれている。 確か塚か何か残されていたんでは?

 

 

 

 

 

 

 

大土公の祭文 というのがあって、唯一生き残った兄と妹を夫婦とし、再び ひとだね が始まる。 何故このようなものが、ここにあるのかわからないけれど、同じようなモチーフの物語が、古代中国にもあるといいます。 ここでいう「ひとだね」とは、「人類」を表していて、これは聖書でいう ノアの方舟 伝説だと言われているんです。

 

 

そういえば、ずいぶん昔・・・・・物部にも近い剣山にて、ノアの方舟伝説の船らしきお話しを、目にしたことがありました。あるいは、ソロモンの宝とか・・・。 この一帯は、よくUFOも飛んでいて、私も一度母親と買い物に向かう途中で、目撃したことがありました。・・・・・・これマジな話しです! もう何人もの人が、見たと聞いているし・・・方舟やソロモンはどうなのかわからないが・・・・・(笑)

 

民間信仰や様々な文化歴史を学んでいる方からすると、なんでも物部村とは・・・・とてもそうした事柄では、日本全国においても貴重な価値がある場所なんだそうですよ。 ずっと住んでいた人間からしたら、当たり前すぎてそうした事を言われても、「はぁ~~、そうなんですか。」 くらいにしか思わないんだけどね。

 

 

ダム工事が行われていた昭和30年代には、たいそう賑わった場所だったともいいます。 そんな昭和35年頃、徳島県との県境付近まで、道路が整備されたんだそうです。 40年代を境いにして、50年代以降は人口減少が続き。 残念ながら現在では、平成になって元々は郡として使っていた  香美郡下 の複数の町や村と合併して、物部は村ではなくなり町となり、香美市に入りました。

 

祈祷効果のあるという言葉である りかん (よみわけ) を身につけるには、個別の唱文を太夫ごとに教わらなければなりません。

それら祭文は、口伝えが主で、太夫の許しが出て初めて、一人前と認められます。

 

いざなぎ流の太夫と、陰陽師との間の歴史には、これまた千年近い時間差もあるといい、今更ながら私的にもとても興味深い話だと思ってます。 物部の中心地が、私の故郷ですが・・・・・そこから30キロ以上先に山を越していけば、やがて太平洋に面した町に出ます。

 

 

 

 

 

昔はその道を、背中に塩を背負い歩いて物部まで往復していたといいます。 帰りには、山間部の食や土産を持って帰ったのでしょう。

今ではその山道も、一般の人もあるけるように整備されていて、毎年その道を歩く 塩の道ウォーク が開かれています。

 

海沿いから物部まで歩くんです。 私も一度やってみたいと思っているんですけどね。 子供の頃に、話しでしか聞いてなかった道。

現在でも集落には、塩を担いで往来した名残と、  という地名が残されています。

 

 

物部の中心部から奥物部の山へは、昔登山者を乗せたバスが往来していました。 今は皆車を持つようになり、そうした姿も見ることはありませんが、標高の高い山からだと、四国の尾根も見渡せ・・・・・土佐の海を見ることも可能なんです。 戦時中なのか・・・・・

朝鮮から連れて来られた方々が、標高の高い場所に・・・・徳島県へと抜ける道の工事へと駆り出され、その場の風景が故郷に似ていると、その峠道に アリラン峠 と名を残しました。

 

 

 

土佐の田舎独特の 柚酢 土佐ではこれを「ゆずす」ではなくて、

「ゆのす」と言いますが、これを使った酢飯で作る田舎寿司があります。 筍やこんにゃく・・・・みょうがなどを使ったものも、具ではなくて

ネタとして使うのです。 甘く煮つけた筍の筒の中に、酢飯を入れる なかなか美味ですよ! 川魚を甘露煮にして食べたりもします。

 

平家落人の里に行くと、ほぼ同じものがあって・・・・ちょっと親近感が湧いたりもするんですけどね。 彼らが伝えたものもあるんですかね。

 

 

多分このお借りした写真は、城があったと言われている場所から、私も通った小学校を写しているんだと思います。 私の学び舎は、昔の木造校舎だったけど、中学にあがる時に取り壊しとなり。 コンクリートの学校に変わりました。 こうして見ると、やっぱり懐かしいですね。

ダムの下にも、昔は多くの集落があり、川を渡す船もあったといいます。うちの母は、遊覧船と言っていたけど・・・・・・

また、現在の赤橋の1つの手前には、弥生時代の遺跡が眠っているそうですが、いつもはダム湖の中。 詳しくわ教えてもらってませんが、

アンモナイトの化石がとれる場所もあるとか・・・・・。

 

自然豊かなこの場所は、太古の海の底だったとの話しです。

 

 

海はないけど、豊かな山の緑と川と歴史と文化がある。

ここに伝わって大切に伝承されてきたいざなぎ流は、後継者を育てるために、子供達にも興味を持ってもらえるように、頑張っているようです。 絶対に絶やしてはいけない故郷の文化です。

 

 

私の家族は、誰も持ち合わせなかった能力を、私が持ってしまったのも、伯母が太夫をやっていたように、何か意味があってのものだと思っていますが、私は間接的なことでしか、もう関わることができません。 それでも先祖から受け継いだものだと思ってます。

 

私の故郷・・・調べれば調べるだけ確かに面白い場所かもしれません。

ちなみに、「土佐の高知の播磨屋橋で、・・・・」 で有名な純信・お馬の駆け落ちしたルートは、この物部の奥地の山を越えて行ったんです。

あれは、幕末の龍馬が生きていた頃の史実なんです。 (^ー^)

 

参考: 土佐 物部村 神々のかたち

     物部の民俗といざなぎ流   松尾恒一