大村藩勤王三十七士 | サンドリヨンのブログ☆正統派歴女いざ参る!

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  日本を今一度 

        せんたくいたし申候

 

これは、有名な我が土佐の国の英雄 坂本龍馬 が、文久3年

1863年 6月29日に、自身の姉である 乙女姉やん に宛てて出した書簡にしたためた言葉として、世に知られた言葉。

 

 

この頃龍馬は、神戸海軍塾に入っていて、長州藩が下関で外国と戦争をしていた頃。 徳川幕府は、長州の味方をせずして、戦いで傷ついた外国船を修理していたという現実は、龍馬達一部の人間にとっては衝撃的であり、同じ日本人なのに外国人に味方するとは何たることと、幕府の役人達に激怒した。

 

 

そんな腐りきった役人達を、いっそ撃ち殺して日本を洗濯したいというような。 この時の事件を知った龍馬が怒りを現わにして決意を語った手紙の一部分なのです・・・・・

 

時を同じくして、文久3年 12月・・・・・あるひとつの小さな小藩にて、世の中を憂いて強く日本の為に立ち上がろうと決心し、勤王の志を持った人々がいました。

 

 

肥前大村藩 ・・・・現在の長崎県大村市での出来事です。

 

江戸遊学などをして帰国した武士達は、天下泰平と言いながらも、世の中に今何が起こっているのか・・・・。そんな動向を敏感に感じ取っている者達も、中にはいくらかいたのです。 大村藩の大村氏は、994年 藤原直澄 が寺島に上陸して 久原城 に本拠をかまえて、この時に 大村氏 を名乗り、以来14代500年近くこの城を居城とし、鎌倉時代から南北朝時代と・・・・あらゆる出来事においてその働きめざましく。 西国の武将として名をあげたと、史料には残されています。

 

そして戦国時代・・・・現在の大村市にある大村公園となっている城跡。玖島城 を、朝鮮出兵などの経験から、守りの堅い城を築こうとして、この地に築いたのが、第19代 大村喜前 (おおむらよしあき) という人物でした。以来大村藩としての12代藩主・・・・・ 

大村純熈 (すみひろ) のいた幕末まで、270年余りの年月を、この玖島城を居城として、大村藩2万7千石の城下町としたのです。

 

 

今は静かな佇まいを見せている大村の町ですが、大村氏が当地に君臨するようになってからの歴史では、当時から日本の歴史文化を騒がせるような事柄が、数多く起こっていた場所でもあるのです。

 

 

ペリーが日本にやって来きて、世の中を騒がせるその45年も前の事。イギリスの軍艦 フェートン号 が長崎の港に入ってきて、オランダ商人を人質に取る事件が起こりました。

 

当時日本国はまだ鎖国中で、唯一貿易をする事を許していたのがオランダの国だったのです。 龍馬達が日本で初めての商社を作った・・・ 

亀山社中 と呼ばれた場所。 実はこの 亀山 という地では、亀山焼きという焼き物が焼かれていました。

 

 

現在の記念館となっている建物跡には、当時の焼き物の欠片が沢山出土したとして、館内にて一部を展示しています。 亀山社中があった場所は、現在では山肌にびっしりと張り付くようにして、家々が建ち並んでいるのですが、幕末の頃にはここいらは、只の山肌に曲がりくねった坂道と段々畑がある。 その中腹に亀山焼きの小屋がポツリと建っている。 そんな感じの場所でした。

 

この地を龍馬達に勧めたのも、あの薩摩藩の 西郷隆盛 らで、それにはいろいろと理由もあったようです。

 

この亀山の地で焼かれた大きな壺は、当時海外貿易などで長崎に出入りをしていた大型の船などには、とても特別な意味を持つものとして、飛ぶように売れていたと言います。 そう、・・・・この大きな壺は、長旅を続ける船員達の為の飲み水などを入れて、船に積み込む役割を果たしていたのです。 しかし、ある時から・・・・・

 

その壺が、全く売れなくなってしまいました。 これにより、亀山焼きは衰退する事となり、幻の焼き物と化していったのです。 商売ができなくなった亀山焼きの小屋に、そしてその数年後・・・・龍馬達がやって来たという事です。 何故、焼き物が売れなくなってしまったのか・・・・・

 

  それが、このフェートン号との関わりある事柄でもありました。

 

 

オランダは独占的に、日本という国と長く貿易を続けてきましたが、丁度1800年代の頃、母国で革命が起こり戦争をすることとなり。

その相手国の1つでもあるフランスに負けてしまい。 属国のような立場となってしまったのです。その事を日本との貿易にて不利になると、長く日本側には、伏せたままとなっていたのです。

 

それを知らされていなかった長崎の人々も、亀山の地の人も・・・・

何故急に、物が売れなくなったのか? 何故海外からの船が、出入りすることがなくなったのか・・・・と、時と共に不思議には思っていたのですが、その真相が明らかになるには、もう少し時間がかかりました。

 

戦争にも負けてしまったオランダ国王は、当時イギリスへと亡命をしていました。 実はイギリスとフランスは、この頃対立関係だったのです。

 

フランスの属国なのに、オランダ国王はイギリスへ亡命。 オランダ領となっていた土地は、イギリスの管理下となっていったのです。 これをよく思わなかったのが、オランダが立ち上げていた貿易などを目的としたアジアの 東インド会社 でした。

 

      その対立は、遠く長崎の地にも及び事となります。

 

イギリスの管理下となる事を拒んだオランダの東インド会社の船を、一方的に拿捕しに長崎の地へとやって来たフェートン号は、偽の国旗をつけて出島のオランダ商人達を安心させて、船に近づいてきたオランダ人を人質にして、長い旅で底をつきかけていた食料と水を、日本の国に要求してきました。 もし、応じないのなら長崎の地を攻撃すると・・・・・・・。

 

 

当時の長崎奉行所では、なんとかこれに対して、武力抵抗しようと仲間を集めようとするのですが、平和な世の中となっていた日本にて、その事に応えてくれる同士も仲間も、ほぼ集まることがありませんでした。 当時の長崎では、九州の福岡藩と佐賀藩が、1年交代で長崎警備の任を任されていました。 この時は佐賀藩の当番だったのです。

 

長崎奉行であった 松平康英 は、福岡・佐賀藩と共に、大村藩にも協力を求めていたのです。 しかし、どの藩の対応も鈍く・・・・。佐賀藩に至っては、本来ならもっと多くの警備兵を、常駐させなければならないのに、この時派遣していた警備兵は、その半分にも満たない数でした。 よって、こうした不手際によりフェートン号に対して、強く出ることもできずに、相手の要求を受け入れて必要なものを差し出し。

 

人質は後解放されることとなりましたが、職務怠慢と江戸幕府に責任を問われて、9代佐賀藩主は江戸屋敷にて100日間の幽閉生活。

 

佐賀藩の家老数人と警備年番であった佐賀藩士16名共々、切腹となり・・・・・長崎奉行・松平康英も、その責任を取る形で、切腹をして果てたのです。

 

 

 

現在の長崎奉行所は、今から十数年程前に、復元されて建てられたものですが、なかなか迫力のあるとても広い立派な建物です。

 

この地に奉行として赴任した歴代の長崎奉行は、やはりこうした責任の重いストレスを抱えていた為か・・・。当地に勤務した後に、まだ30代や40代にて、突然亡くなった方々が多くいました。 あの時代劇でもお馴染みの 遠山の金さん の御父上も、この長崎奉行をされた時期がありました。

 

この事件後、イギリスの船が日本近海にて、多く出没する事が続き。幕府は、外国船への警戒心を高めて、文政8年 1825年 ・・・・・

外国船打払令 を出すきっかけとなり。 財政を再建して海の攻防に務める事に力を入れることとなり。 これもまた 維新の原動力 の1つとなっていきました。

 

長崎の地にあった 大村藩 は、フェートン号事件の責任を取って、上手く外国船を追い払えなかったとして、関係者の多くが切腹することとなったこの事件にショックを受けて、外国に負けない新しい日本を作る必要性に目覚めて行くのです。

 

 

外国に負けない新しい国づくりと体制に対して、今のままでの幕府の体制では古すぎて、対抗できない・・・・・。 幕府を倒して朝廷を中心とする新しい国づくりが必要。 

 

武力で開国を要求した欧米に対して、武力で打ち払えという・・・・・

攘夷論 と、幕府の政治が混乱したことと、天皇を敬うという尊皇の考え方が合わさった 尊皇攘夷論 ・・・・・

 

しかし、互がいがみ合っていても何も始まらず。 幕府を倒す為には、大きな藩の力も必要と、後の幕末維新の英雄と言われた人々が動いて、まずは 薩長同盟 が結ばれる事となりました。 これは坂本龍馬が、よく知恵を出して当時仲の悪かった 薩摩と長州藩をまとめたように描かれますが、実はこの薩長同盟に関しては、龍馬だけの知恵ではなくて、同じようなことを考えていた龍馬の同士 

中岡慎太郎 や多くの人々もいたんです。

 

その中には、今回紹介する大村藩の人間もいました。

薩長同盟が結ばれる前には、尊皇攘夷派として・・・・長州藩と七卿落ちでも有名な尊皇攘夷派の公家の方々がいました。 対する公武合体派には、幕府とそれに味方する公家・・・・、会津や薩摩藩がいました。

 

しかし、薩長同盟が結ばれて、朝廷に倒幕派が加わると・・・・・

尊皇倒幕派とされた人々の中には、 朝廷・長州・薩摩・広島・土佐・尾張・・・・そして、その中に大村藩の姿もありました。

 

対する幕府側には、幕府と会津・桑名藩そして、新選組などがいました。 これを見てもわかるように、長い徳川政権の中で、自国の藩と強い繋がりや付き合いなどがあった者同士が、結びついていったような姿もありました。

 

話しはようやく元へ戻りますが、文久3年 1863年・・・・・

龍馬が 「日本をせんたくいたし申候」 と書いた年の暮・・・・。 大村藩では、渡辺 清 昇兄弟を中心に、勤王三十七士同盟 が結成されます。 当時はまだまだ秘密結社的な集まりで、本人と同士と認めた人間以外の身内・親兄弟・妻子・藩の人間であっても、他言無用な口外できないものでした。 勿論相手が役職での身分が高い人であろうが、藩主であろうが・・・・。 まだまだ藩内には、こうした動きに反対する保守派もいたのです。

 

 

実はね・・・・。 後であまりに可笑しくて、笑ってしまったんだけどね。 数年に龍馬の足跡の旅をしていて、長崎の地にて急遽2泊することとなった時に、初日に声をかけてくれて、世話になった駐車場の男性達がいたんだが、その中に・・・・ 渡辺 清さんソックリな方がいてね。

 

ご飯までご馳走になり、もう少し話しをしていたいとまで言われたことがあったんだが、勿論・・・・そうした不純な気持ちもなくて、そういった出会いの旅でもなかったんでね。 やんわりとお断りしたんだけど。

まさか龍馬が会わせた生まれ変わりだったりしてね。

後で資料を見ていて、顔がそっくりなんで驚いたんだよ。(笑)

 

龍馬と長崎の旅では、毎回本当にサプライズな事が起こる旅になるんだけど、 この時もそう・・・・龍馬と土佐もん関係者が私に仕掛けたサプライズだったのかなと、驚きつつも爆笑してしまった。(笑)

 

あっ、言っとくが勤王の話しとか尊皇攘夷な話しは出なかったよ。(笑)

 

さて、冗談はさておき・・・・・。 大村藩は小さな藩だったんで、そんな小さな藩が単独で、幕府に立ち向かう事もできず。 それ故、新しい日本を作っていくには、各藩の力を合わせていくことも大事と、清や昇達は・・・・、いろいろな藩を周っては話しを聞いて、説得するなど頑張っていたのだ。 そうした互が力を合わせて、大きな計画に向かっていく事を、彼らの間では 一縄の策 と呼んでいた。

 

仲間の家老であり侍大将でもあった 針尾九左衛門と松林飯山 という2人が、慶応3年 1867年 の正月に、城からの帰りに突然襲われるという 大村騒動 と言われる事件が起こりました。

 

針尾はなんとか助かりましたが、松林は日本の夜明けを見ないままに、この時亡くなってしまいます。 その犯人探しが行われると、捉えられた人々は、幕府に味方する者達だったこともあり、三十七士の同士達は、強い怒りと共に幕府を倒すという意見が強くなっていき、・・・・

倒幕に決まっていったとの事でした。

 

渡辺 清や昇は、当時西へ東へと奔走しては、西郷隆盛小松帯刀 大久保利通 などの薩摩藩関係者や・・・・、桂小五郎 高杉晋作  後の伊藤博文 長州藩の藩主世子でもあった毛利元徳などにも謁見。 太宰府へは都落ちしていた五卿や・・・・・

土佐の 坂本龍馬・中岡慎太郎 

 

薩摩藩国父である 島津久光 ・・・・そして、福岡藩や薩摩・大村藩・長州藩などの協力連携などの説得などなど、毎日を忙しく交渉の足跡を残していました。

 

 

身近で外国の力をよく見聞きしていた大村藩では、外国に負けない国づくりには、いろんな藩との協力は重要と認識していて、あの薩長同盟に対しても、実は大きく力した人物達だったのです。

 

大河ドラマでも、多くの作品でも・・・・・大村藩が主役となることも、その名が世に知れ渡る事も、ほぼありません。 でも、こうして小さな小藩でも、明治維新に向けての一歩を歩みだすきっかけを作った。

 

  その原動力は、凄まじいものがありました。 

 

大村藩最後の藩主 大村純熈 (すみひろ) は、10代藩主の8男として玖島城で誕生しました。 彼は兄の後を継いで、12代藩主となるのですが・・・・・・

 

 

蘭学や西洋式軍隊などに興味を持ち、それらを取り入れて藩の改革も推し進めました。 後長崎惣奉行に任命されると、翌年にはそれを辞めて、藩を勤王倒幕へと導きました。

 

慶応4年 1868年 鳥羽伏見の戦いが始まり。 翌年5月には、函館五稜郭の戦いまで続いた 戊辰戦争 が起こる。大村はこの時朝廷に付き、出陣して京都から江戸・会津に向かった 東征軍 と、長崎から秋田へと向かった 北伐軍 が出陣。 この戦でも、各所にてめざましい働きをしてみせた。

 

江戸城を攻撃する予定でいた官軍は、西郷隆盛と勝海舟との間で、

江戸城無血開城 が決まり、幕府軍は城を明け渡す事となったのですが、その大事な話し合いの場に同席していたのが、あの大村藩三十七士の1人であった 渡辺 清 だったのです。 清は西郷からの信頼も厚い人物でした。 薩長同盟での長州藩への説得を、桂小五郎と親しかった清の3歳年下の弟・昇に託したのは、あの坂本龍馬でもありました。 この2人の兄弟は、幕末の英雄からも認められた人物だったのです。

 

 

清 は藩主以外で1人だけ・・・政府から直接褒美をもらった人物です。明治政府からは、戊辰戦争で傷ついた東北地方の立て直しの為にと、後に福島県知事を任命されています。 40歳の時には、福岡県知事にもなり、秋月での士族の反乱鎮圧にも力しました。

 

娘の 石井筆子 は、女性や知的障害者の教育・福祉に協力した人物として、有名になりました。

 

その弟・ 昇 は、三十七士の中でも一番の行動派で、剣の達人でもありました。江戸での剣の修業中に、桂小五郎達長州藩の人々とも親しくなり、同じ頃新選組の局長となる前の 近藤 勇 とも知り合います。

 

大村藩主 純熈 の下で、仲間達と共に天皇を救う・・・・

三十七士同盟 を作り。他藩の武士達と連絡を取り合い。

龍馬からも必要とされた人物で、明治になってからは、大阪府知事他・・・武道の会 大日本武徳会 の役員となり、剣道を全国に広めました。

 

それ以外の三十七士の同士はと言うと・・・・・

楠本正隆 は、三十七士の中の中堅的存在で、大村を代表して福岡・島原・対馬の武士達と意見交換をしました。 大久保利通にその政治力を認められて、後に新潟県知事になり、それまで上手くいかなかった信濃川の工事を成功させるなど、政治で頑張り新潟の人々にも、喜ばれた人物でした。 そして、東京府知事や衆議院議長なども務めて、自身が造った新潟市の白山公園には、現在彼の銅像が建っています。

 

夢志半ばにして、殺害されてしまった 松林飯山 は、幼い時から神童と言われていて、勉強もよくできて殿様の命令で今の東京大学に入り、勉学に勤しみ・・・。明治になって三菱を創った土佐の 岩崎弥太郎 と共に、安曇良斎 の下で勉強を習った友でもありました。大阪で友達と塾を作り、大村に戻ってからは、 五教館 の先生となり。その4年後には校長となりました。 渡辺 昇達と共に、大村に勤王思想を広めて、尊皇倒幕運動を進めた。 三十七士の中で、1番の勉強家だった松林飯山が暗殺されたのは、自宅前での出来事だった。

 

五教館とは、大村藩の藩校で、武士だけでなくて百姓・町人も入学を許可して、文武両道を学ばせて、明治維新後前後に活躍する・・・、多くの優秀な人材を輩出しました。 その中には、ノーベル賞を取った 

湯川秀樹や朝永振一郎 博士などを教えてた 長岡半太郎 ・・・日本史の基本資料を活字化した 「国史大系」 編纂と日本の歴史学を確立させた 黒板勝美 

横山大観らと並び称される日本画会幹事も務めた近代日本画家であった 荒木十畝 などもいる。 

 

他にも、清・昇達兄弟と同じ年の 長与専斎 という人物もいましたが、この方は大阪にて緒方洪庵の塾にて蘭学を学び、その塾仲間にはあの 福沢諭吉 もいました。元々大村藩の医者の家に生まれて、天然痘を治す事で活躍した祖父 長与俊達 に育てられました。

 

そして欧米諸国の医療制度を見たりして、帰国後日本の医療・保険制度を作っていき。 病気にならない為には、環境が大事と 予防 の考え方を取り入れて、日本初の 衛生 という言葉も作り出しました。

 

 

 

  倒幕活動の日々の中では、新選組に追われる日々もありました。

 

 

 

 

幕末から明治維新にかけての大村藩の働きは、小さな小藩にも関わらず・・・・・。倒幕の褒美として、明治2年・・・・明治政府は戊辰戦争での手柄を建てた 藩・藩主・諸隊 などに対しての褒美を出しました。

 

それらはまだ当時 石高 というもので与えられていて、最高は薩摩藩と長州藩であり、 10万石 がそれぞれの藩の石高に対して上乗せされました。 3番目は土佐藩の7万石 ・・・・・。そんな家康の時代から名を馳せていた大名家に並ぶようにして、 3万石 を頂いたのが、今回紹介してきた大村藩だったのです。

元々の石高が 2万7千 だから・・・・・それよりも高い恩賞であったのには、驚きですね!

 

 

江戸300藩と言われた昔・・・・。 日本国には今では名も知られていないような・・・本当に小さな藩達も、あちらこちらに存在していました。

 

名ばかりで、実際はもう既に消滅しているような藩もありました。 そんな大小様々な藩にも、日々の暮らしを一生懸命に生きる人々がいました。 そんな中で、 「これじゃいかん!!」 そう思った人々もいたでしょう。 しかし、大きな藩ならばいざ知らず。 小藩と言われた小さな国は、いつも大きな国の後ろで細々と生きていくしかなかった。

 

何の志もなき所に ぐずぐずして日を送るは 

                 実に大馬鹿ものなり

 

 

慶応元年 1865年 ・・・・・

丁度この言葉が書かれた手紙を、土佐の乙女姉やんと姪のおやべへ宛てて書いたのは、私が生まれた9月9日の事。

 

同年5月に、龍馬は長崎にて亀山社中を開いたが、土佐では大村藩と同じように、国を憂いて立ち上がっていた 土佐勤王党 の弾圧が終りを迎えようとしていて、党首であった 武市半平太 が切腹・・・・・。 京都の町でも人斬りと恐れられていた 岡田以蔵 が斬首となっている。 そのことに対して龍馬は、「志を持った人達を処罰する藩は、腐りきっている。 そんな所でぐずぐずして日を送るのは、とんでもないことだ。 さっさと離れた方がいい」 という思いをしたためていた。

 

各地で土佐や大村藩のような勤王・尊皇攘夷・倒幕と、いくつも立ちあがっていった人々の集団もいたが、藩の中での対立に勝てずに、理解を得られずして、黙って沈黙するしかなかった人達もいた。

 

 

大村藩では、維新後にまず21基の・・・・。 後大正時代までに残りのものを建てていって、 三十七士の碑 と言われるものが、JR大村駅近くにある 護国神社境内東側にある。 これは亡くなっていった順番に建てられているそうだ。 ちなみに馬上の写真は、それとは関係ない下関市長府の功山寺境内にある 奇兵隊 をこの地で立ち上げた 高杉晋作 の銅像だ。

 

きっと皆は、大村を通り過ぎて、ハウステンボスへ行くのか佐世保や長崎市内へと向かうのだろうと思う。 長崎街道 という歴史の道も通っている大村の地。 またいつかいろいろと紹介したいと思います。 (´へωへ`*)

 

来年の大河ドラマの 西郷どん にも、・・・・ 

大村藩の三十七士 は・・・・出るのか出ないのか? 本当は知っていて欲しい人達の姿です。 ( ̄^ ̄)ゞ