カンボジアを語るには『まずその歴史から!』
と前記事で書きました。
まだ、まとまっていないけど、
このまま行っちゃいましょう✨
美しいプルメリアの花が咲くこの場所は、
トゥールスレン虐殺博物館と呼ばれています。
トゥールスレンとは別称S-21と言われ、
クメール・ルージュに拷問を受けた収容所のうち、
『極秘』の収容所でした。
…
…
急に、拷問、収容所、クメールルージュと
前記事までの可愛いカンボジア土産💕から一変。
ここから先を私は読んで欲しい。
少しでも多くの人に知って欲しい。
でも、引き返すなら今がチャンス✨
この先は、
カンボジアの深い深い闇に迫ります。
なぜ、20世紀最大・最低と言われる虐殺は
緑豊かなカンボジアで起こったのでしょうか?
…時は…
1953年
🗾日本でテレビやゴジラの映画が開始され、
トヨタの初代クラウンが販売開始。
美空ひばりや青い山脈が大ヒットした頃。
カンボジアはフランスから独立し、
カンボジア王国となると、
シハヌーク国王👑が国を治めていました。
その際、反政府闘争(過激派武装勢力)として、
ポル・ポト率いるクメールルージュ🔫が闘争を開始。
(超弱小だった。笑)
1960年代
隣国ベトナムでは、ベトナム戦争が行われており、
シハヌーク国王は、アメリカからの空爆が自国カンボジアに落ちるのを懸念していました。
👑『やめてよ!空爆NO!』
1965年
当時は、お米が輸出するほど豊富だったため、
カンボジアの余過米の1/4が北ベトナムとベトコンに買い上げられていたが、
政府による農民への買い付け額がベトナムの買い付け額よりも安かった。
(国がベトナムへ転売!?)
1967年
政府による余過米強制的安値買い付けに対して、
農民と地方政府が衝突
1970年代
アメリカ🗽に支持されたロン・ノル将軍のクーデターで、
シハヌーク王政👑が廃位。
シハヌーク国王👑は中国へ亡命。
↓
国王の亡命直後、
アメリカ軍手・南ベトナム軍がカンボジア領へ侵入!
(⚠️アメリカ🗽による空爆を嫌がるシハヌーク国王👑が邪魔だった。)
米軍の空爆🗽はカンボジア全域に拡大!
わずか1年6ヶ月で200人あまりが避難民に。
カンボジアの国土は日本の1/3だが、
空爆の量は日本の3倍降らされたの💣💥。
▼結果▼
・1696年:田んぼ面積249ha、輸出23万t
・1974年:田んぼ面積5ha、輸入28万t
にまで規模が小さくなり農民が犠牲になった。
↓
この事態を受けて、
亡命していたシハヌーク国王👑は、
中国北京でカンプチア王国民族連合政府を結成。
中国の後押しで、
シハヌーク国王👑はクメール・ルージュ🔫と手を結び…
(え?最初は敵だったよね笑)
1975年
クメール・ルージュ🔫(とシハヌーク国王👑側)は
🆚
ロンノル首相とのカンボジア内戦に
勝利✨
(してしまった)
当時、
・シハヌーク国王👑を敬う尊王的な農民
・空襲に対する反米🗽(反ノンロル)感情
・戦争が終わるかもしれない期待
で、みんなクメール・ルージュ🔫を応援していた。
そう、最初はクメール・ルージュ🔫を喜んでいたのです。
ある日、
クメールルージュ🔫から
『3日後、一時的にアメリカの空襲から避難する』
と言われ、荷物をまとめると、
もう2度と自分の家には帰れなかった…
書ききれないので続きます→