私がまだ4歳から5歳くらいの頃、
家族でよく大塩へ行きました。
親父が魚釣りへ行くのに家族みんなで
ついて言って弁当食べたり私は兄と遊んだり、
そんな感じで大塩の運河へよく行きました。
その頃運河の周辺には流下式の塩田が広がっていたのでした。
広大な平原の中に枝条架と呼ばれる独特の形状をした装置が
いくつも並んでいて、常に水が流れる音がしていました。
広大な平原なのでそこへ入って遊ぶと言う発想が
幼い子供ならあっても良いと思うのですが、
子供ながらに本能的にそこへ入ってはいけないのだ
と言う意識が不思議と自然にあった事を思い出します。
ここ最近塩田について調べてみたところ、
やはりその平原には入ってはいけなかった事が分かりました。
流下式塩田と言うのは、
海水を緩やかな勾配がついた粘土質の土の上に流すことで、
太陽光を使って水分を蒸発させ、
更にその水分を蒸発させた海水をポンプで汲み上げて
枝条架から滴下させることで、
今度は風力を使って更に水分を蒸発させて塩分濃度が
高くなった鹹水を作り、
最終的にその鹹水を煮詰めて塩の結晶を取り出して、
塩を作っているのです。
なので広大な平原に見えたその場所は、
海水が常に流されていた場所だったのでした。
最初から海水を煮詰めて塩を抽出すれば良いのでは?
と言う発想もあるかと思いますが、
海水に含まれる塩分は3.5%程度しかなく、
これをいきなり煮詰めるのでは非効率なので、
煮詰める前に水分を効率よく蒸発させて塩分濃度を
上げてから煮詰めるようにしていたのですね。
最近何故かあの大塩の
広大な平原の中に枝条架がいくつも並んでいた
独特の塩田の風景を思い出すのです。
きっかけは私の親父が購入し後に私に譲ってくれた
昭和43年に発売された
日本の汽車
と言う蒸気機関車の写真集の書籍のあるページを
見た事でした。
そのページには昭和42年に宇多津-丸亀間を走行する
蒸気機関車が撮影されているのですが、
そのバックの風景が広大な塩田なのです。
そこには多数の枝条架が写り込んでいて、
正に私が幼い頃に家族みんなで遊びに行った
あの大塩の塩田とよくにた風景が展開されているのです。
昭和46年に製塩法が改正され、
塩田は姿を消してしまいました。
幼稚園の年長組だった私はある日の朝刊に
大塩の塩田の枝条架が燃やされている写真が掲載
されていたのを今も忘れません。
あの時幼いながらも
”塩田がなくなってしまうんやなあ”
とその写真を見て思った事を今でも覚えています。
ネットで色々調べてみると
赤穂には今でも枝条架がごくわずかですが、
塩田の形態の一つとして存在しているようなので、
一度機会があれば観に行きたいと思います。
大塩の塩田風景が今でも忘れらないし、
もう可能性は極めて低いとは思いますが、
機会があれば昔のような広大な平原の中に
沢山の枝条架が並んでいる塩田の風景を
見てみたいものです。
因みに大塩の塩田跡は、
未だに広大な草原として開発も進まないままになって
いるようです。
塩田廃止から既に40年以上もの月日が経ったというのに、
その土地は未だに有効活用されていないようです。
ならば無理に塩田を廃止することはなかったであろうに・・・、
と日本の政治の愚かさに溜息が出てしまうのでありました。